コロナ禍によって社会や文学(俳句を含めて)がどう変わるのかを推論するのは未来学者の仕事であって、素人が何を予想しても、おそらく当たらないだろう。AIが2045年には(俳句においても)人間と同じ働きをすると言われているが、その予言と同じく、信ぴょう性の高い予測は極めて難しい。しかも、俳句という活動は、人間の他の生命維持的(エッセンシャル)な活動と比して大きなインパクトを持っていない。スポーツ、エンターテインメント、観光とも違って、俳句活動はそもそも夏炉冬扇であり、不要不急な行為だからでもある(実はそこが俳句の宜しさなのかも知れないが……)。
俳句が始まってからのその変遷を語るのは、俳文学者の仕事であろうが、疫病と関連付けて解説した文献は、筆者の目にはまだ触れていない。疫病とは違うが大飢饉との関連でも、たとえば蕪村は享保の飢饉を、一茶は天明の大飢饉を青年時代に経験しているはずであるが、それによって当時の俳諧かどのように変わったのかは、つまびらかでない。俳文学者にぜひご教示賜りたいところである。
百年前のスペイン風邪が大正以降の俳句にどう影響を与えたかも興味がある。しかし、調べてみても、後で触れるが、大変化があったという印象は湧かなかった。

筆者(=栗林)は、表題の件についての随想を現代俳句協会の月刊機関誌「現代俳句」(2020年8月号)に、寄稿させて戴いた。今、この2021年1月の時点において、新型コロナウイスルの蔓延は収束を見せず、第三波の高いレベルにある。医療資源が枯渇しているにしては、国民の防禦意識は低いように見える。
日本でコロナウイルス感染が初めて報告されて、今年の一月十五日で一年が経った。昨年三、四月に第一波が、八月には第二波、十二月から第三波とやってきて、国民は感覚麻痺の状態にあるようだ。専門家も政府・官僚も、中国のような、強烈な行動締め付けか、あるいはスエーデンやブラジルのような国民総免疫獲得まで何もせずにおく、という両極端な選択肢が可能な中にあって、経済的疲弊による犠牲者の急増とコロナによる死者の急増のどちらをも収めたいという難しい施策に挑戦している。表面上は、状況に応じて、小出しの政策を出すにとどまっているように見える。
医学会では、日ごろ陽の当たらないところにいた公衆衛生学者や疫学専門家が、これほど期待される時代はなかったであろう。いままで、医療ドラマでもてはやさるのは、神の手を持つ外科医であったり、患者に寄り添う人間の心を持った医師のドラマばかりであった。官僚も政治家も不慣れな領域の大問題に遭遇し、どんな施策を発表しても、国民も与野党も、賛否両論を言いつのり、政府を責めている。多くの市井の人々は無関心でいようとしていたり、あるいは思考停止に陥っているようにも見える。
この機会に「現代俳句」に寄稿した文章を抄録させて戴きます。
引用 俳句の歴史的変遷を書いたものは沢山あるが、疫病と関連付けて解説した文献は筆者の目にまだ止まっていない。
安政二(1855)年には大地震があり、五年には、江戸で七月から九月にかけて二八万七千人ものコレラの死者が出た(「人文地理」第三十巻五号(1978年)による)。このころ俳人としては三森幹雄がいたはずだが、影響はさだかではない。コレラよりもむしろ、安政の大地震による疲弊や黒船来航が明治への政変に繋がっている。
疫病とは違うが大飢饉との関係でも、たとえば、蕪村は享保の飢饉を、一茶は天明の大飢饉(死者九二万余)を経験しているが、それによって当時の俳諧がどのように変わったのかはつまびらかではない。
大正のスペイン風邪については後述する積りである。
阪神・淡路大震災と東日本大震災は、見えるものの激変……流されて行く車や家々や火災……の映像が人々に強烈なインパクトを与えた。しかし、同時に起こった原発事故による放射能汚染については、セシウムやトリチウムが目に見えないがため、俳句は十分には詠えなかった。もちろん、彷徨う牛、浜通りの疲弊した街並み、夜(よ)の森の桜並木などは、目に見えるがゆえに俳句に詠まれ感動を読者に伝えた。友岡氏郷や高野ムツオの句は十分に人口に膾炙している。セシウムと同じだとは言わないが、コロナウイルスは細菌よりも小さく光学顕微鏡では見えない。ウイルスが人々に齎した目に見える部分を俳句の題材あるいはモチーフとして、俳人たちは盛んに詠んで行くことになろう。いや、もうそれは歴然と始まっている。
コロナ禍はこう詠まれている 朝日俳壇では、次のような句が選ばれているので、令和二年六月十九日の朝日新聞を引用しよう。
コロナ禍の句がはじめて朝日俳壇に乗ったのは二月十六日であった。
旅人の如(ごと)くマスクを探しけり 齋藤 紀子
短歌よりも一週間早かった。人々の表情や視線は次第にとげとげしさを増す。
マスクして徒ならぬ世に出てゆけり 縣 展子
咳をしたら人目 中村 幸平
桜咲く生徒不在の校庭に 大井 光隆
四月七日、七都府県に緊急事態宣言が出され、十六日には全国に拡大する。厳しい状態におかれた人の痛みや、為政者のちぐはぐな対応への批判が詠まれた。
約束のマスク届かぬ杉菜かな 根岸 浩一
人の往来も自粛が求められ、「三密」を避けて人と人の距離感が変わった。
初孫に会へぬ三月四月かな 正谷 民夫
季節は夏になっても、完全な終息は遠い。今夏の高校野球選手権大会も中止になった。
今日もまたどこへも行かず蝶の昼 遠藤 嶺子
結社誌・同人誌でもコロナ句がこの七月、急速にふえた。(高野ムツオ松澤雅世、安西篤、武田真一らくがあるが、省略)
「鷗座」の松田ひろむは、やはり八月号で季語「マスク」論を展開し、大正三年初出の季語だとしている(『新撰袖珍俳句季寄せ』による)。大正三年はスペイン風邪以前ではあるが、明治二十二年にも流行り風邪があったようなので、マスクが既に使われていたのであろう。
俳誌という俳誌にはかならず「コロナ」や「マスク」が詠われ、論じられ始めた。恐るべき蔓延ぶりである。これには批判的な意見もあろうが、すべては「質」次第である。しばらくは続くであろう。人々は、コロナやマスクを「題材」として、あるいは「動機」として読み続けるのである。地方の小規模の結社誌の通信欄に「この逼塞の世に俳句があって良かったとつくづく思います」とあったことは救いである。古くからの「俳句という表現形式」を信頼している証左なのである。
もちろん、総合俳誌にもコロナにかかわる俳句や緒論が多くなった(長谷川櫂、大石悦子、寺井 谷子等が紹介されているが略)
筆者が驚いたのは、同号の青木亮人の記事に、「島村元の父も感冒(スペイン風邪)で息を引き取った」とあったことである。後で虚子の周辺を述べるが、「ホトトギス」に、大正八年一月十二日の例会に「はじめ君は父君逝去のため欠席」とある。この「はじめ君」が島村元(はじめ)である。父は久といい、岡山藩出身の外交官で、能と鎌倉の縁で虚子とは仲が良かった。息子の元は虚子の写生論を進めた若者で、虚子の大きな期待を担っていた。彼はこのあと、虚子との長崎方面への旅の途中風邪をこじらせ、大正十二年八月二十六日に鎌倉で亡くなった。スペイン風邪とは書かれていないが、彼も父同様。風邪で命を亡くしたのである。行年三一。蔓延は収まっていたはずなのだが、ひょっとすると、ウイルスは人々と共存状態に入っていたのであろうか。
この直後、関東大震災が起こった。
日本でのスペイン風邪 スペイン風邪が日本を襲った1918(大正七)年から1920(同九)年にかけての統計を掲げよう。今のコロナ風邪に較べて桁外れに大きい数字である。
流行期 患者数(人) 死者数(人) 死亡率(%)
第一回(大正7年8月から)21、168、398 257、363 1、22
第二回(大正8年) 2、412、097 127、666 5、29
第三回(大正9年7月まで) 224、178 3、698 1、65
合計 23、804、673 388、727 1、63 日本でスペイン風邪が確認されたのは、大正七年、当時日本が統治中であった台湾を巡業した力士団のうち三人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。 五月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀、横浜へと広がった。当時の日本の報道では「流行性感冒」であった。だから「スペイン風邪」というキーワードで検索しても古い資料にはヒットしない。たとえば、内務省衛生局発行(大正11年3月30日)の統計報告書の題名は『流行性感冒』とある。平成十七年に東京都健康安全研究センターが出した「日本におけるスペインかぜの精密分析」の数字が前の表である。約三八万九千人もの死者が出た。しかも第二波の死亡率が格段に高い。
ふり返って思うに、日本で三八万九千の人々が三年間で亡くなったこの大事件が、あまりにもあっさりと過ぎてきたように思えるのは何故であろうか。私見であるが、このあとすぐに関東大震災(大正十二年)が起こり、十万五千人がほとんど一瞬にして亡くなった。建物の崩壊、大火災など、視覚に焼き付く現象が起こった。スペイン風邪は三年で三八万だが、自然界の姿は、山も川も森も花も変わらなかった。しかもほとんどの人々は単なる流行性感冒だと受け止めていた節もある。大震災の目に見えるインパクトが大きすぎて、流行り風邪はその陰に隠れてしまったのだろうか。今風にいえば、記憶の上書きが起こってしまったようである。
スペイン風邪と文壇・歌壇・俳壇 スペイン風邪が流行ったとき文人・歌人・俳人はそれをどう詠んだであろうか。芥川龍之介はスペイン風邪にかかっており、そのことを大正7年11月の友人への手紙で告げ、
胸中の凩咳となりにけり 芥川龍之介
凩や大葬ひの町を練る
という俳句を添えた、とある(「週刊朝日」2020年6月12日号)。呼吸のたびにヒューヒューと音がする自身の病状をこがらしに喩えた一句である。病状はかなり重かったようだ。手元の「現代日本文學全集26」(筑摩書房)の『芥川龍之介全集』の年譜には大正七年に高濱虚子に俳句を師事し、実父を大正八年三月にスペイン風邪で亡くしたとある。
芥川とともに東大同人誌「新思潮」のメンバーだった久米正雄も、スペイン風邪にかかった一人で、大正八年二月「生死の境を彷徨す」と、先の筑摩書房の全集にもある。「新思潮」メンバーだった菊池寛もそうだったようだ。川端康成は東京を避け、伊豆に遊んでいる。大正七年秋、一高生であった。蛇足だが、このとき川端は修善寺から湯ケ島を旅し出会った旅芸人一座との思い出を描いたのが「伊豆の踊子」である。我孫子に住んでいた志賀直哉には大正八年発表の短編「流行感冒」がある(禁じてあった芝居見物をひそかに観に行った女中の話)。スペイン風邪を題材にした作品は武者小路実篤にもある(宙返りが得意な女中が流行り風邪で急死する話)。
齋藤茂吉は大正六年末から長崎医学専門学校教授に任じられていたが、長崎を襲ったスペイン風邪を詠んでいる。
寒き雨まれまれに降りはやりかぜ
衰へぬ長崎の年暮れむとす 齊藤茂吉
その茂吉も感染し命も危ぶまれ、妻子にも感染した。
与謝野晶子は、その子の一人が小学校で感染したのをきっかけに、家族が次々と感染してしまった。晶子は「感冒の床から」と題して神奈川県の新聞に「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」と書いた。
では大正俳人たちの行動はどうだったのだろうか。『定本虚子全句』(松田ひろむ編)によれば虚子の足跡が容易に辿れるのでこれに基づいて述べよう。大正七年当時四五歳であった虚子は頻繁に句会を催し、旅行に出かけている。
驚いたことに、大正七年二月、「流行性感冒にかゝる」という記述があった。スペイン風邪は当初「流行性感冒」とか、力士が初めての罹患者だったので「相撲取り病」とか言われていた。しかし、それはこの年の五月以降のことなので、この二月の虚子の風邪は単なる流行り風邪であったに違いない。別の資料に興味深い記述を見つけた。
スペイン風邪の場合、死者の大半は二十代から四十代で占められた。この不思議な現象の答えは至って単純で、
1889(明治二二)年以降に生まれた人々は(以前に流行した)インフルエンザにかかった経験がなく、免疫が皆無だった。それ以前の人々はスペイン風邪より症状が軽度ながら、それと似たインフルエンザを経験していたためにある程度の免疫を有しており、その経験の差が生死を分けたのである。(『人類はパンデミックをどう生き延びたか』島崎晋著、青春出版社)(傍線は筆者)
虚子は1874(明治七)年生れである。だから、すでにインフルエンザの抗体を持っていて、それがこの時の感冒を軽くしたのかもしれないし、その直後のスペイン風邪にも無事でいられたのかもしれない。医学的な証拠がないのだが、日本中が流行り風邪で混乱していたはずなのに、虚子一行は一見平然と日本中を旅している。政府は今と同じように、マスク、手洗い、混雑を避けるよう求め、神戸などの小学校を休校としていたが、一般市民にきびしい自粛を要請してはいなかったようだ。
大正七年六月以降の虚子の行動は、都内および近郊での句会が目白押しで、いちいち上げていてはきりがない。地方への旅だけを上げてみよう。
大正七年十月八日夜出発、松山での亡兄三年忌。京阪地方にも数日滞在。下旬帰東。十月二十一日 神戸毎日俳句会、十月二十二日、堺句会。
大正八年には、一月十二日の例会五五名。(島村)はじめ君は父君逝去のため欠席(前述の通り)。四月十二日、山陰・九州への旅。京都、丹波竹田、丹後舞鶴、城崎、米子、出雲、津和野、山口、福岡(禅寺洞、月斗、風生、紫雲郎など八十人以上)。十一月三日、北海道へ。小樽(長男年尾が小樽高商在学)俳句会五十人。札幌の鉄道倶楽部にて八十人。
大正九年、気になる風邪の句が一月十一日にある。虚子の夫人いとさんであろうか。
風邪の妻眠ればなほるめでたさよ 高濱 虚子
一月二十二日には小樽の年尾が丹毒のため入院したので、急遽、北海道へ向かった。帰京
後、次は京都である。二月二十二日、京都俳句大会一七〇人。二月二十三日、京大三高俳句会。草城、王城、紫雲郎など十八名。蛇足だが、この京大三高俳句会がその後「京大俳句」となる。
ここで目を引いたのは「大正九年一月二十日、大須賀乙字逝く」という記述であった。スペイン風邪であった。乙字の死去については、村山古郷の『大正俳壇史』に詳しい……大正八年十月、乙字は旅から帰ったとき風邪気味であったが意に介さず、さらにいろいろなところに出かけた。同月二十八日、三十九度九分まで上がり、感冒と診断された。十二月になって病状は一進一退し、年賀状用に次の句を詠んだ。死は予想していない。
床上げをこの元旦と定めけり 大須賀乙字
三十日、病状は急変した。それでも一月四日、上京した人の歓迎句会を乙字の家の二階で開いた。賑やかなことが好きな乙字だった。この時の句が絶句となった。
干し足袋の日南に氷る寒さかな
一月七日から病状は急速に悪化し、下痢は止まらず、オゾン吸入を始めた。乙字の一子精一(十歳)も風邪で他家に預けられていたが枕頭に呼ばれた。もうまともな会話は出来なかった。大正九年一月二十日午前十時、不帰の人となった。会葬者は堂に溢れた。うら若い婦人が白い項を垂れて棺に泣き崩れた。乙字の教え子で、今は荻原井泉水夫人となった人だった……とある。
パンデミックとその後 ペスト(原因)はルネッサンス(結果)を引き起こし、文学では『デカメロン』というイタリア散文芸術を生んだという。スペイン風邪(原因)は第一次世界大戦を終わらせた(結果)し、その後それが遠因となってナチス(結果)が力を得る環境を作ったとも言われている。しかし、逆に人間の集団的行動(原因)がペスト菌やコロナウイルスを目覚めさせる結果になったことも事実であろう。大きな感染病の一つであった結核を考えれば、産業革命という人間の集団行動(原因)が都市への人口集中を招き、劣悪な生活・労働環境を生み出し、それが結核菌の増殖(結果)に繋がったし、人間の愚行である戦争(原因)による兵士の集団移動がスペイン風邪の蔓延(結果)を引き起こした面もある。原因と結果は輻輳していて、判断が付きにくいことがある。いずれも海を越えての人の大移動が原因であり、当時は船、今は飛行機である。
ペストがルネッサンスを齎したと言われているが、これは後追いの結論であった。ペストの最中にそう予言したわけではない。大衆は、ペストは信仰の弱さによって齎されたものだと思った。日本でも奈良時代に天然痘が入って来て百万人以上が死んだ。疫病は悪霊の仕業であると信じられ、東大寺がそのために建てられた。
コロナ禍が俳句に多く詠まれるであろうことはすでに述べた。だが、パラダイムシフトが起こるという強い兆候は、まだ見えない。スペイン風邪のあとの状況を振り返っても、そうだった。但し、俳句を楽しむ環境は大きく変わるかもしれない。我々はいま厳しい自粛からようやく抜け出そうとしているが(注記、この原稿は令和二年の七月中旬に脱稿している)、この期間中、所謂、「行動変容」があった。市井の句会が全部休止した。大正時代の虚子の状況とは大違いである。テレワークが一般化した。これは孤立・孤独につながる。一人居は俳人の好むところかもしれないが、それは、長谷川櫂のいう、俳句に必要な「場」を失うことに繋がり、ひいては結社や協会の結束力に変化を齎すかもしれない。リアルタイムのテレビ会議のような仕組みでの句会が流行るかというと、それだけの仕組みを支えるコストに市井の句会が堪え得るかどうかは疑問である。だが、間違いなく通信句会は広がって残るであろう。
ふり返ると、近現代の俳句の変革は、人が作り上げた仕組みが、①崩壊するか、②円熟して倦怠や弛緩を招いたときに起こったようだ。幕府崩壊につぐ西洋文化の流入と子規の「写生」による俳句改革、それに「花鳥諷詠」を加えた虚子王国の確立、それに対抗する秋櫻子や誓子の新興俳句運動、戦時体制強化による俳句弾圧、そして最大のパラダイムシフトは敗戦であった。すべて、①か②が原因であり、パンンデミックや自然大災害は直接原因ではなかった。
この間、俳句と言う表現形式は存続し、広義の定型=五七五は変わらなかった。封建時代にも自由主義の時代にも、そこに住む人々に俳句はあった。確かに新興俳句弾圧事件は起こったが、その流れは戦後も非伝統俳句群の一つとして生き残っている。伝承俳句から新興俳句が分かれ、敗戦を迎え、社会性俳句が盛んとなり、そして前衛俳句が興り、それから今は大衆化を経て微温的な俳句も、難解な俳句も、ともに幅をきかせるようになった。しかし、どれも五七五を基本とする俳句のままで、自然や人の抒情が詠まれ続けた。長目の破調俳句も、放哉や山頭火のような短いものも、一字空け俳句や多行表記の俳句を含め、五七五感覚を根底に持つ表現形式はそのまま存続するであろう。俳句は古い形式である。俳句という古い形式に新しい事象を詠み込むことは続くのである。兜太は「古き良きものに現代を生かす」といっていたが、世の中の状況がどう変わろうと、それが俳句形式には可能なのである。
コロナ禍のあとの芸術について、現代美術家の宮島達男が書いている(「第三世界」2020年8月号「アフターコロナ特集」)。関心を持った論点は次の二点である。①東日本大震災以降あまり表立ってはいないが、従来と違うアートの潮流が起こっている。コロナ禍によって、芸術家の死生観が変わることでパラダイムシフトが起こる。②(芸術の働きの一例として)感染が深刻だった北イタリアの街で、現地在住の日本人バイオリニストが、病院の屋上で医療従事者や患者のために演奏し、その動画が話題になった。
その①について、どのような現代アートの変化が兆しているのかは、述べられていない。まだ顕在化していないのであろう。②については、ふと考えてしまった……俳句も芸術の一つであれば、バイオリニストのような働きが出来ないものか……と。それは、俳句にとって難しいところではある。俳句の世界は作者が同時に読者(受益者)だという閉鎖空間にある。外の世界に影響を与えようとしてこなかった長い歴史がある。コロナ禍は、果たしてそこに楔を打ち込むことが出来るであろうか? それがあるのであれば一大パラダイムシフトとなるであろう。
レオ・レオニの童話「フレデリック」(谷川俊太郎訳)を思い出した。怠け者の鼠の話である。フレデリックは、ほかの鼠が餌集めに忙しい間、太陽と話をすること、言葉をあつめることばかりしていた。冬になって他の鼠が集めた食べ物がなくなって悲しくなってきたとき、フレデリックは太陽や言葉の話をした。それは魔法のように他の鼠たちを明るくした……という話である。
俳句はそのような働きができるであろうか。