俳諧旅団『月鳴』(中内亮玄発行)

『月鳴』(GETSUMEI)は中内亮玄さんが主宰する「俳諧旅団月鳴」の機関誌(令和3年3月3日発行)である。氏は2012年に海程新人賞と現代俳句協会新人賞をもらっており、爾来、俳壇でご活躍である。
 今号は第2号であり、創刊号に寄せられた各方面からの祝意のメッセージ(石寒太、岸本直毅、黒田杏子、筑紫磐井などの自筆の文面)や、中内主宰の多数の俳誌への寄稿文の再掲、メンバーの俳句作品を掲載している。
 ユニークさが随所に溢れている。まず表紙をご覧頂くのが早いでしょう。

中内月鳴.jpg


 作品欄にはメンバーの紹介が写真とエッセイと略歴入りで、十分な紙幅をとって、なされている。メンバーにはうれしい編集姿勢である。だから200頁を超える俳誌となった。

 筆者は、まず各メンバーの作品を読ませて戴き、そこから最も好きな一句ずつを抽かせて戴いた。感謝を込めて掲げさせて戴きます。有難う御座いました。

008 あらたまの光混み合う鶏舎かな    中内亮玄
039 雀の餌たつぷりと撒き初旅へ     猪狩鳳保
044 気がかりを二つに折れば蝶となる  塩谷美津子
050 自分といふ片隅を見る冬野かな    林 和清
067 みんないて青野に翼つけてもらう  ナカムラ薫
074 ねぶた跳人お腰湯もじが入り乱れて  植田郁一
078 足音を聞き分けている木の芽和え   山田冨裕
082 著莪挿せば森の匂いの立ち上がる   石田秋桜
088 心臓に出口入口花吹雪       佐藤日田路
108 考える葦に火を付けわれら黒し    成井惠子
110 海に出る風の道あり花辛夷      中田良一
117 細かき歯美しきかな相撲取      村田淑子
120 文香も替えて四月の名刺入      小林史於
129 六月の耳たぶ色のおともだち    らふ亜沙弥
146 いい人と言われ悔いある秋の夜   齊藤しじみ
153 身の軽さ自慢しているあめんぼう  白崎寿美子
158 もう一歩杖が先行く春の音     青木かよ子
162 工場の煙まっすぐ春田打ち      若林園枝
167 月出でて高層ビルに突き当る    高石まゆみ
170 喧噪の町の背中に山眠る       金子桃刀
174 落葉掃くついでと母に見送られ    瀧澤 静
176 片方の手袋ばかり二つ三つ     惣次美都子
180 初詣もみじの手にも願い事      松島可奈

きたごち俳句会『大震災の俳句』(柏原眠雨編)(その二)

 引き続き、きたごち俳句会『大震災の俳句』(柏原眠雨編)の地震発生以降の二年目からを読ませて戴きました。先のブログと同様に、琴線に触れた作品を挙げさせて戴きます。ただし、読み続けるうちに、同じ句材が何度も出てまいりまして、正直言って、最初出会った時の感動が麻痺してしまうことがありました。したがって、つい見落とすことがあったと思います。作品は作者名のアイウエオ順で並んでいますので、例えば「避難所」「仮店舗」「防波堤」などの句は、新鮮味の点で、後ろの方が不利になったかと思います。どうぞお許しください。

地震発生後二年目
平成二十四年六月号―十一月号
086 梅を干す津波の端の来し庭に     柏原眠雨
087 松失せし閖上浜に春の波       青木敏浩
    蜩やあとかたもなき母校跡     阿部虎之助
088 浅蜊舟瓦礫の中を戻り来る      及川裕子
089 花の下遺影のみなる野辺送り    小野寺濱女
090 仮設市の揚げたてコロッケ風薫る  小山登志子
091 復興のジャンボくじ買ふ春の夕    加藤 昭
    線量値掲ぐる駅の梅香る      神垣もと子
092 新緑や皆語り部の同期会       菊田和恵
    津波禍の浜に人なき海の日よ     菊地智子
093 秋の波被災夫婦の網仕事      上坂千賀矢
    表札ごと家屋解体鳥雲に      国分惠美子
    塩害の被災地に蒔く綿の種      櫻井京子
095 震災に消えし街並初音聴く      佐藤三夫
    まんさくを牛乳瓶に仮住ひ      三瓶圭子
096 亡き妻も仮設住まひに春彼岸     菅原輝雄
097 帰省子と砂浜に挿す香の束     鈴木ヨシヱ
    除塩済み田んぼアートの苗植うる   竹内牧火
098 福島の復興始めの蛸かご漁      千葉 薫
    懸り藤散つて地震疵あらはるる    徳留 稔
099 蛍狩余震知らする犬の声      中村セイ子
    被災せし浜より届く白子干     中山くに子
100 雁供養津波の瓦礫足し申す      畑中次郎
102 橋落ちしままの雄島や西行忌     藤野尚之
103 花盛りの園に除染の済みし札     松谷路子
104 母の日に震災耐へし母を祝ぐ    村上つね子

平成二十四年十二月号―平成二十五年五月号
108 地震疵の蔵店に売る新小豆      柏原眠雨
109 寒の水汲む防災のポリタンク    石川千代子
    大地震に欠けし鳥居や注連飾る    大江義之
110 干大根庇の浅き仮住居       小野寺濱女
    鴨遊ぶ被災の跡のにはたづみ    小山登志子
111 冬紅葉津波のがれし一軒家     神垣もと子
    罹災地にめつきり減りし秋茜     菊田島椿
    地震禍の更地に乾く鱶の鰭      
112 繭玉も座敷も仮設住ひかな      熊谷志緒
113 被災地の民謡大会春ぬくし     上坂千賀矢
114 線量計腰に出荷の柿捌く      佐々木さよ
    大鍋の冬至南瓜や余震なほ
114 地震来て酒杯の止まる紅葉宿     佐藤啓子
    瓦礫山なぞりて昇る初日かな     佐藤三夫
115 津波禍の校舎の屋根に秋の草     島 明男
116 震災の仮の宿より賀状の来     杉山三枝子
    浜風の復興市場子持鱈       鈴木ヨシヱ
117 仮設団地にポストがひとつ笹子鳴く 鈴木わかば
    地震跡に佇ちて翁の懐手      瀧川すみれ
    聖樹立つ仮設住宅談話室       徳留 稔
118 被災地に第九の響き雪もよひ    戸部恵美子
119 海までの更地つらぬく冬の川     畑中次郎
120 瓦礫積む他県ナンバー冬はじめ   村上つね子
    曼殊沙華庭に除染の土積まる     森田鏡子
121 大津波に呑まれし子等へ菊の供花   山田政次

 私には「塩害」という被害を知り、認識を改めました。
 少し時間を戴いてから、三年目以降を読みたいと思います。

鳥居保和主宰「星雲」終刊

 鳥井さんが急逝されたのが令和二年十一月三日。それを知って、驚いたものでした。持病の肺気腫のため、と知りました。行年は若すぎる六十八。
 十三年前に和歌山から俳誌「星雲」を創刊され、門下生を多く俳壇に送り出した。山口誓子を仰ぐ実直な主宰であられた。
 
 その「星雲」の終刊号が二〇二一年二月二十二日に発刊された。「終刊宣言」には
  一師一代一生誓子曼殊沙華
  愚直にも誓子一筋曼殊沙華
の二句が、編集長小川望光子によって引かれている。遺句集が多分『星雲』と名付けられ、出版されるであろう、と後記にある。ぜひ読みたいものである。

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 私は、鳥井さんとは俳壇のパーテイなどでお目にかかるのを楽しみにしていたものでした。初めは季刊だった「星雲」は隔月発行となり、どんどん成長して行った。門下生の句集も、ほとんどすべてを送って戴いたものだった。私が所属する結社誌から、毎回、一句を抽出して「受贈俳誌御礼」欄に載せて下さった。この終刊号にもありました。原稿は既にまとめておられたのでしょう。
 有難う御座いました。心からご冥福をお祈りいたします。

きたごち俳句会『大震災の俳句』(柏原眠雨編)

 東北の俳句結社「きたごち」のメンバーが詠んだ東日本大震災に係わる俳句作品を、同結社が『大震災の俳句』としてまとめた。地震発生は平成二十三年三月十一日であったが、「きたごち」誌には六月号から載り始めた。以降、令和三年一月までの約九年半の作品である。作品は一頁十句で二六〇頁ほどに及んでいるので、二六〇〇句ほどであろう。末尾に、眠雨主宰や主だったメンバーの震災関連文も掲載されている。特に、柏原日出子の地震発生以降の毎日の記録は、当時被災した人々に共通であったであろう難事が克明に描かれている。欲しいものあれば送るよ、言われ、「ガソリン」と答えたなど、誠にリアルである。「絆」という言葉が当時はやったが、その状況がよく分かる記録である。

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 この類のアンソロジーは今までも多く上木されて来たが、被災者を多く抱えた一結社誌がこのような大部(三二〇頁に及ぶ)の句文集を発刊したことは、画期的なことではなかろうか。震災句は巷に多く詠まれているがゆえに、読者の目はさっと通り過ぎそうになるのだが、一句一句の裏には、それを詠んだ作者の未曽有の体験があることを思えば、丹念にお読みせねばならないと思うのである。
 ここに、最初の一年の分を読ませて戴き、私の琴線に触れた作品を挙げさせて戴きました。このようなことは、不遜なことではありましょうが、中には、力をもらった句があり、ユニークな句があり、私の記憶にぜひ残したく思い、ごく少ない数に絞って、私のために記録した次第であります。ご無礼をお許しください。
 二年目以降の作品はしばらくお時間を戴いて鑑賞し、またブログにあげさせて戴きたく思います。

平成二十三年六月号―八月号
008 泣きながら吸ふ避難所の蜆汁      柏原眠雨
    避難所に回る爪切夕雲雀
009 地震あとの花屋再開風知草
011 給水の順待つ列に春の雪        井上妙子
012 余震続く眠れぬ夜半の恋の猫      大保正子
014 名札無き柩へ捧ぐ梅一枝       小野寺濱女
016 避難所に配るあんパン若楓      柏原日出子
    銭湯の長蛇の列に黄砂降る       加藤 昭
017 母子草名古屋訛の給水車        神垣知夫
    避難所に毛布分け合ひ和みけり     菊田和恵
019 雨水を溜め髪洗ふ被災の子       菊地智子
    津波禍の瓦礫の町につばめ来る    木村螢雪子
020 給水の列に降りつぐたびら雪      久力澄子
    被災地の空に寄進の鯉のぼり     
021 ブルーシートで覆へる屋根に囀れり   小松温美
022 生きてたかと欅花降る下に会ふ     近藤文子
023 ボランティアの水汲みリレー余寒なほ 佐々木さよ 
024 炊き出しの最後はカレー春満月    佐々木潤子
    復興の青空市に桜鯛 
    いきいきとして震災の入学児    佐々木ミヤ子
025 春時雨瓦礫の中に三輪車        三瓶圭子
026 夜泣きの子抱く避難所の凍て廊下   杉山三枝子
    戒名に海の一文字花曇
    通夜経の間にも余震や朧月      
027 避難所に靴の配給かたつむり
028 被災船を陸より海へ夏の雲      鈴木わかば
029 津波あと干潟に鳥のはや遊ぶ     高泉ぶえつ
    被災地の折れたる枝に桜咲く      高木秀子
    なゐあとの畑に菜の花明りかな     高橋健二
    給油待つ車列に淡き春日影       高橋貞子
030 もらひ湯の帰りの頬に梅の風      徳留 稔
031 断水のトイレに使ふ雪解水       富田洋子
033 避難所のキャッチボールや草青む    野家啓一
034 再開の店頭に先づ種袋        長谷川醒逸
    津波禍の海を讃へて卒業歌       畑中次郎
035 余震来て豚産気づく春灯下       廣田丘映
037 地震あとのお一人一個春キャベツ   望月みどり
038 地震跡を起し花種蒔きにけり      森田鏡子
    リラ冷えに置くうす墨の仮位牌    屋代ひろ子
040 給油待つ長蛇の列や春の星      渡辺タエ子

平成二十三年九月号―十二月号
042 花茣蓙や太三味線の慰問隊       柏原眠雨
    被災地の桃売り出せり朝の市      青木敏浩
045 雨漏りの仮設住宅梅雨に入る      井上妙子
049 ピアスゆらして復興の踊りの輪     菊田和恵
    トロ箱に蕃茄実らす被災の地      菊田島椿
    捗らぬ瓦礫の撤去風は秋
050 お位牌の流失詫びて墓洗ふ       
    流灯会津波に果てし姉二人       熊谷志緒
051 救援のヘリ飛ぶ下の梅の花      越淵もぐら
052 梨届くヨウ素セシウムゼロの札     近藤文子
    貰ひ湯の裸電球ちちろ虫       佐々木さよ
054 避難所に届く牛乳明易し       杉山三枝子
057 避難所の高き天井明け易し       徳留 稔
060 罹災者になつく野良猫半夏雨      畑中次郎
063 蓮の露ぐらりと回る余震かな      山本一史

平成二十四年一月号―五月号
066 津波禍の浜辺に獅子の舞激し      柏原眠雨
068 土嚢積む仮堤防や鯊の竿        井場敏子
070 津波来し川遡り鮭撲たる       小山登志子
071 露草や鉄路失せたるままの駅     柏原日出子
073 震災の蔵店に買ふさくら餅      神垣もと子
074 救援の湯たんぽ抱く夜明け初むる    熊谷志緒
077 食卓に線量計や菊の家         三瓶圭子
078 被災せし家に狸の住みつきぬ      鈴木淑子
089 仮設小屋に笑ひ声するお元日      徳留 稔
081 裏返る船のもつとも陽炎へり      畑中次郎

 このアンソロジーに参加されたお一人お一人のご苦労を想像しながら、読ませて戴きました。これからも健吟を続けられますよう希がっております。

水岩 瞳句集『幾何学模様』

 句集『幾何学模様』は水岩さんの第二句集(2021年1月18日、ふらんす堂発行)。氏は長谷川櫂・大谷弘至の「古志」同人で、池田澄子にも私淑している。そのせいか句柄が澄子調に似ている。飴山實に係わる俳論で「古志俳論賞」をもらっている。歌人でもあられる(「塔」のメンバー)。


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 著者の自選十五句が帯に記載されているが、中で筆者の特に気に入った四句を掲げておこう。
037 永き日のタカアシガニの一歩かな
043 ベルリンの壁消ゆどつと西日濃し
096 ただ灼けて有刺鉄線続きをり
163 鯉幟のなかの青空折り畳む
 三句目は沖縄の景であろう。

 筆者(=栗林)の共感句は四十句以上に及んだが、中から、前出の四句を含めて三十句に絞って掲げる。

010 しやくら~と手を揚げ吾子は走り出す
016 ちやひまつせ箸が空切る心太
030 切干や母おはしますだけでよし
030 蛍光灯かなり遅れて点いて冬
042 トムヤンクン真上蠅取リボン垂る
046 遅参してあやつの隣黒ビール
053 あちこちと向いて纏まるさくらんぼ
059 夏祭薄荷パイプが欲しかつた
068 生きてゐていいのかと母梅の花
088 逆さまの世界地図貼るどこが春
089 雛飾りせずに菱餅雛あられ
090 どちらかと言へば葉が好き桜餅
096 忘れたらかはいさうやさ沖縄忌
097 靈の字に口が三つや原爆忌
101 初めてのことがまだある春日傘
102 親切な築地警察多喜二の忌
104 倖せをよそほふ人や桜漬
106 抽斗の奥のさざ波さくら貝
108 真つ直ぐは哀し曲がれよ胡瓜どち
110 馬が糞落してゆくや巴里祭
117 香に飽いて木犀花をこぼしをり
118 母を待つ少年が蹴る秋の空
127 「エリーゼのために」ばかりや春日遅遅
141 すぐ逃げてすぐにおしやべり稲雀
145 父が父らしき頃なり懐手
150 地球より月を愛して地球人

 一読してこの句集の魅力は上品なイロニーにあると思った。ここでいうイロニー(またはアイロニー)とは、高尚な哲学や文学用語のそれではなく、エスプリの効いた知的な「皮肉」といった意味である。皮肉と言っても、イヤミではない。一般の人々の認識の隙をついて、詠まれた句であり、読者は「ああ、そうだそうだ」と納得してしまうような、説得力ある句が多いのである。例を出そう。

090 どちらかと言へば葉が好き桜餅
102 親切な築地警察多喜二の忌
104 倖せをよそほふ人や桜漬
108 真つ直ぐは哀し曲がれよ胡瓜どち
110 馬が糞落してゆくや巴里祭
117 香に飽いて木犀花をこぼしをり
127 「エリーゼのために」ばかりや春日遅遅
145 父が父らしき頃なり懐手
150 地球より月を愛して地球人

 私の勝手な好みで選んでしまった可能性はあるが、許されたい。つまり、なんとも私好みの句集であるのだ。いくつかを鑑賞しよう。

090 どちらかと言へば葉が好き桜餅
 桜餅には、道明寺風と長命寺風があって……などの蘊蓄はさておき、一般の認識では本体を賞味するのだが、水岩さんは葉っぱの方が好きだという。桜餅用の桜の葉を塩漬けにして供給する専門店があり、いい香りがするので、分かるような気がする。しかし、一般認識の隙を突いているので、面白い。

102 親切な築地警察多喜二の忌
 築地署といえば小林多喜二を拷問で死なせた警察署だ。何かの件で、作者はこの署で親切にしてもらったのだろうか? まさにイロニーだ。

110 馬が糞落してゆくや巴里祭
 巴里祭だから、シャンゼリゼ大通りを騎馬警官がパレードしてゆく景を想定したくなる。あとの路上に馬糞が転がっていた。たしかに私もどこかの都市(ブエノスアイレスだったか?)で見たことがある。でも、俳句には、普通、こんな景は詠まない。賑やかな風景や恋人同士を詠ったりするのが通例だ。これも一般認識の隙間を突かれた感じがする。しかも、リアルである。

145 父が父らしき頃なり懐手
 懐手は、普通は傍観者的な態度を表わす。褒めた言葉ではない。父の「懐手」を見て、父が元気でもっとも父親らしかった頃を思い出すというのは、いかにも皮肉っぽい。そこが面白い。

150 地球より月を愛して地球人
 月をめでる風流人をおちょくっている。月なんかより、自分が住む地球をもっと愛しなさいという。月よりも現下の地球の方がもっと切実!

 イロニー以外に、もちろん、惹かれる作品がたくさんある。

010 しやくら~と手を揚げ吾子は走り出す
 この「しやくら~と」には新鮮味がある。微妙な意味がありそうで、想像は出来る。「~」の記号をワードで探すのに苦労した。

016 ちやひまつせ箸が空切る心太
「違いますよ」という意味だろうが、「ちやひまつせ」の表記が手柄。010の句の「しやくら~と」と同じ手柄である。心太は箸一本で食べるものらしい。このことに気が付くと、なんと粋で愉快な句であることか。談林派的。

030 蛍光灯かなり遅れて点いて冬
 蛍光灯の特徴をよくとらえている。あたり前のことなのだが、こんなことを俳句にされると、実に愉快で、やられた感がつのる。

088 逆さまの世界地図貼るどこが春
 私は南半球の国で暮らしたことがある。夏は太陽が頭上の北をはしり、北風は暑いのだ。地図の上が北で、しかも日本が真中に書かれている地図に慣れていた私には、いかにも奇妙であった。固定概念の隙を突かれた句。

106 抽斗の奥のさざ波さくら貝
 これは抒情的で、美しく、水岩さんの原風景的な句で、まともな句。ほかの句がまともでないという意味ではないが、水岩さんはこんな句も容易に書けるのである。
 
 実に楽しい句集でした。

能村研三『能村登四郎の百句』

 能村研三著の『能村登四郎の百句』は2021年1月10日、ふらんす堂発行。「沖」創刊主宰の父登四郎の百句にそれぞれ200字ほどの鑑賞を添えている。


能村登四郎の百句.jpg
 

 登四郎と言えば、私の脳裏にはつぎの句がある。
   子にみやげなき秋の夜の肩ぐるま    昭和26年
   春ひとり槍投げて槍に歩み寄る     昭和42年
   今思へば皆遠火事のごとくなり     昭和63年
 だが、該著には沢山の好句があることを、今更ながら知らされた。

 研三による末尾の解説「俳句は命明り」は、登四郎の句業を俯瞰するには、大変参考になる文章である。
 私は以前から、登四郎が社会性俳句人に数えられていたことを不思議に思っていたのだが、次の研三の言で納得がいった。

・・・現代俳句協会賞を受け、好調の波に乗ってよい筈だったが、登四郎は「何となく心が晴れない日々がつづいた。」とこの頃の心境を吐露している。登四郎が心の内で悩んだのは、『合掌部落』の作品が社会性俳句の一収穫と見なされたからで、登四郎自身、制作の核心に社会主義の明確なイデオロギーがあった訳でなく、本来は日本の伝統の美とほこる民族の生活が無惨にも崩壊していく姿を憂うことが主眼であった。

 第二句集『合掌部落』よりも第一句集『咀嚼音』に愛着していたことが次の文で解る。『咀嚼音』は、登四郎が、生きる限り続く人間の悲しみの韻を主調として、人間に執し、自己の生活と職業に焦点を当て、教師として父として夫としての生活哀歓を謳いあげた結果の句集なのであった。

・・・先の『賀正部落』はその後角川書店から刊行される『現代俳句大系』に収録されることになったが、登四郎はその収録に最後までこだわりを見せ『咀嚼音』に愛着があることを申し出たが、社会性俳句の代表句集であることから、その申し出は叶わなかった。

 登四郎のこの指向が、のち現代俳句協会が分裂し俳人協会ができたとき、彼をして俳人協会へと向かわせることになったのではなかろうか……これは素人の勝手な憶測ではあるが……。

 ここで、改めて感動を戴いた登四郎の句を、該著から拾っておこう。

012 長靴に腰埋め野分の老教師    昭和24年
024 汗ばみて加賀強情の血ありけり  昭和29年
028 捕虫網買ひ先づ父が捕へらる   昭和30年
042 火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ  昭和31年
090 しじみ蝶ふたつ先ゆく子の霊か  昭和46年
140 花合歓の醒める刻さへ妻醒めず  昭和58年
142 一度だけの妻の世終る露の中   昭和58年
156 霜掃きし箒しばらくして倒る   平成元年
168 長子次子稚くて逝けり浮いて来い 平成4年
192 楪やゆづるべき子のありてよき  平成10年

 有難う御座いました。

池田澄子さん読売文学賞受賞を祝して

 池田澄子さんが句集『此処』で読売文学賞を授与された(2021年2月1日の新聞による)。小生は個人的に、池田さんがいつ大きな賞を受けられるかを楽しみしていたので、この度はことのほか嬉しく思った。思えば、5年前の昭和27年12月に、池田さんのご自宅で取材をさせて戴いた。その記事は、多くの俳人への取材記事とともに『昭和・平成を詠んで』として、発刊させて戴いた(書肆アルス、03‐6659-8852)。
 お祝いの思いを込めて、ここにその記事の一部を再掲させて戴きます。

昭和・平成を詠んで.jpg


引用

十六、新しい俳句を志す―池田澄子

 池田澄子 昭和十一年三月二十五日生まれ 平成二十八年末現在 八十歳

一、初めて書いたのは詩―父の死
 人気女流のお一人である池田澄子さんが、何かを書きたい衝動に駆られたのは、父の戦病死がきっかけであり、その表現形式は「詩」であった。彼女の俳論集『休むに似たり』(ふらんす堂)にこんな一文がある。

 初めて詩を書いた。詩のつもりのものを書いたのは敗戦の一年前、国民学校二年生のときだった。父が中支で戦病死した報せを受けた日のことを書いたのだが、最後の二行だけ覚えている。
   わたしもかなしかったが
   お母さまはもっとかなしそう
(中略)その日学校から帰ると、母がまるで睨むような顔付きで私を二階へ引っぱっていった。そして階段を上りきった途端、声を殺して嗚咽しながら「お父ちゃまが死んだの。もう帰って来ないのよ」と言った。その時、私に父の姿がはっきり見えた。それはおかしなことに一枚の写真の父の姿であった。ああそうか、こんな風に人の姿が眼前にはっきり現れることがあるんだなあ、それにしても何故この写真なのだろうと思いながら呆然と突っ立っていた。涙は出なかった。母は念を押すように言った、「戦死しても歎いちゃいけないの。名誉なことと思わなくちゃいけないの。だから泣いたのは内緒」。

二、戦場の近眼鏡
――あの頃は、戦死は名誉なことだと思うように教育されていましたが、身内のことは別だと思っていました。でもお母様がそんなに遠慮されていたと知りますと、当局の感情操作の徹底さに恐怖を感じます。
池田 そうなんです。意外な気持ちがしました。母でさえもそう言うんだって……。中支の漢口の陸軍病院で亡くなりました。チフスだったんです。父は軍医でした。以前に東京で開業していたのは産婦人科と内科の病院でした。母方の叔父も医者で、仲良かった二人は一緒に産婦人科・小児科・内科の病院にしようと話していたようです。叔父は繰上げ卒業で、医者になり、間もなくニューギニア戦線へ行き、そのまま帰って来ませんでした。父は北、叔父は南で亡くなったんです。
 先ほどの話での父の写真ですが、どこで撮ったか分からないような小さなものです。他に、構えたような、大きな、まともな写真があったのに、眼前に現れたのは、それじゃないんです。軍服姿じゃないんです。なぜ、そんな記念すべき写真でないものを思い出したのかが不思議です。父はハンサムでした。軍人の格好を嫌って、軍帽なんかも崩して被っていました。およそ軍人らしい人じゃなかった。ヴァイオリンが好きでよく弾いていました。陸軍病院の院長さんが父の遺品と遺骨を別送して下さったのですが、遺骨は届きませんでした。遺品に三冊の日記がありました。遺骨と日記……どちらか一つと言われると、どうでしょうか、日記でよかったのかなあって……。私は父に候文で手紙を書いたことがあるんです。それで父は「良い子に育っているようだね」って、娘にメロメロだったようです。私も、娘が父をこんなに思っているってことを報せたいのですが、もう決して伝わらないんですよ。それっきりね。永遠にね。
――よいお父さんでしたね。こんな句があります。
    敗戦日またも亡父を内輪褒め      『拝復』179
    母またも亡夫自慢を雨の月
  ところで、
    戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ    『自句自解 ベスト100』162
  という句があります。特定の兵士を詠んだのではないんでしょうが……。発想はお父様の眼鏡から……。
池田 はい。私は、詠む対象は出来るだけ一般化・普遍化して、私性を出さないようにしています。基本的には、俳句で私や身内を知って貰おうという気持ちがないからです。ただ、この場合は、父の眼鏡の小さな写真がイメージにありました。この写真がそれです(と言って見せて下さった。眼鏡を掛けた若い兵士のモノクロの顔写真に〈戦場に近眼鏡……〉の句が添えられている)。テレビ番組で俳句のお話をしたときに使った写真です。ただし、この句からは、「こうやって死んで行ったのは日本兵だけじゃない。相手国の兵士もいたであろうし、彼らの父や母、兄弟姉妹も悲しんだのだ」というところまで読み取って戴けると嬉しいです。父の死は、戦死というものの中の一つです。
――なるほど。迂闊でした。私は、近眼鏡は若者のものですから、青年たちに同情を感じていました。少なくとも「老眼鏡」は飛ばないよなって(笑)……不謹慎でした。池田さんに戦争の句が多いのですが、気が付いたのを上げてみます。亡き父上の句も入れてありますが、実に多いですね。

   雪黒しここは亡父の家路であった
   前ヘススメ前へススミテ還ラザル     『自句自解 ベスト100』124
   八月来る私史に正史の交わりし      『池田澄子百句』103
   忘れちゃえ赤紙神風草むす屍       『池田澄子百句』088
   戦場に永病みはなし天の川         『拝復』027
   溜まった汗のつつつつと満州忌           028
   怠るに似て頭を垂れて敗戦日            028
   土用波どこにどうして英霊は            029
   学徒戦歿させしことあり金色銀杏          116
   兵泳ぎ永久に祖国は波の先             179
   ところどころで戦争ときどき秋立ちぬおり夏落葉
   光ってしまう夏潮英霊忘れ潮
   小島在り亡父のごとく在り月下
池田 ええ、師の三橋敏雄にも多いんです。だから作りやすかった。先生と競争していたような気もします。
――二句目の〈前ヘススメ〉の句は無季ですね。ある伝統俳句系の重鎮がこの句を大変褒めておられました。ご自身も戦争体験がおありだったせいか、「いや、有季でも無季でもいい句はいいんだ」って。
池田 それは嬉しいです。でも、そうですよ。これにね、つまり、戦争俳句にね、花を咲かせたって邪魔ですよ。これは『たましいの話』(角川書店)にありますが、三橋先生は句会のあとで、「うん、これは良い。一般に受け入れられるかどうかは分からんが……」と言って下さいました。句集にするときは、先生はもう亡くなられていました。ですから、天上の先生に「評価してくださる方がいますよ」ってお知らせしたいです。このカタカナ表記はほかの句には使っていません。

三、忘れちゃえ論争
――四句目に〈忘れちゃえ赤紙神風草むす屍〉があります。色々議論があったようですが……。
池田 ええ、ある雑誌で取り上げられました、不謹慎だって。忘れられないから、忘れちゃえって書いたのが真意ですが、文字通り「忘れちゃえ」と読まれて批判されました。言われて見れば言葉としては「忘れちゃえ」って書いてありますからねえ。私自身へ言った言葉なんですが……。でも、作者としては、そのようにストレートに読まれて忌避されることがあるかも知れない、ということを想定内に置いておかねばならなかったと、気付きました。そして、それでも発表するかどうかを考えるべきだったです。言葉で勝負する立場ですから、そこまで考えていないとね。結局は、発表していたでしょうが……。
――「満州忌」と言う句があります。〈溜まった汗のつつつつと満州忌〉です。お父様は漢口の前は満州におられたのですか?
池田 ええそうなんです。「滿州忌」は造語です。敗戦によって満州はなくなったのですよね。父ははじめの頃、満州に征っていました。その頃の満州は豊かでして、私たちが住む家も用意されていましたので一緒に行くことも考えたらしいですが、弟も小さかったし、結局は行かず、父の実家の村上(新潟県)に引っ越しました。もし行っていれば、父は亡くなるし、母は弱かったですし、間違いなく私は戦争孤児ですよ。いや、残留孤児かも。あるいは生きて帰れなかったかも。満州は豊かだったと言いますが、いつころからか「怪しくなって来た」と、父の日記の三冊目の後ろの方に書いてありました、もうすぐ前線に行かねばならないって。そして日記は終っています。
――戦争以外、たとえばテロや震災の句は如何ですか?
池田 震災のときは作れなかったですねえ。どう書いても虚しくってねえ。でも、一句だけ〈春寒の灯を消す思ってます思ってます〉がありますが、悔しかった。書けなかったんです。簡単に図式的には書けるんでしょうが、それやってもしょうがないですよね。なさけなく辛かったです。

引用終り

 記事は、このあと
四 新台所俳句・俳句のような俳句
五 恋の句
六 俳句を書く時の態度
七 師のこと
八 作品の変化
などが続き、「池田澄子私論」も付記してある。
 末尾には小生の共感句が次のように羅列されている。

   敗戦日またも亡父を内輪褒め        
   忘れちゃえ赤紙神風草むす屍        
   戦場に永病みはなし天の川         
   土用波どこにどうして英霊は        
   春寒の灯を消す思ってます思ってます    
   ところどころで戦争ときどき秋立ちぬおり夏落葉          
   小島在り 亡父のごとく在り月下             
   じゃんけんで負けて蛍に生まれたの     
   ピーマン切って中を明るくしてあげた              
   屠蘇散や夫は他人なので好き                  
   青嵐神社があったので拝む                   
   太陽は古くて立派鳥の恋                    
   目覚めるといつも私が居て遺憾                  
   前ヘススメ前ヘススミテ還ラザル                 
   戦場に近眼鏡はいくつ飛んだ                   
   本当は逢いたし拝復蝉しぐれ           



 池田さんのますますのご健吟を願っております。

池田澄子さん読売文学賞受賞

 今朝(2021年2月1日)の新聞で、池田澄子さんが句集『此処』で読売文学賞を受けられたことを知った。誠におめでたく、お祝いを申し上げます。
 ここに小生のブログにあげた『此処』の紹介文を皆様に再び読んで戴ければと思い、お知らせ致します。勝手な感想を書いていますが、失礼をお許しください。記事は、「栗林のブログ 池田澄子」で検索してみて下さい。

谷原恵理子句集『冬の舟』

 谷原さんは、山田弘子主宰(故人)の「円虹」に入り、岩淵喜代子代表の「ににん」、辻村麻乃主宰の「篠」や超結社「亜流里」(中村猛虎代表)にも所属されておられる。令和三年一月二十日、俳句アトラス発行。序文は岩淵代表、跋文は辻村麻乃がそれぞれ書かれておられる。

谷原恵理子句集.jpg


 自選の12句は次の通り。

  狼は絶え伊勢道の常夜灯
  一本の桜を母とみる夜かな
  引力と神は見えざり木の実降る
  みちのくの星押し寄せてねぶた引く
  空箱の軽さ恋猫戻りけり
  眉にふれ淡海にふれ春の雪
  いい女といふに幼き祭髪
  黒セーターレノンの歌は雨のやう
  花惜しむとは青空を仰ぐこと
  心中を終へし人形近松忌
  魚の腑を返すましろき冬の波
  白木蓮のかたりと花の外れけり

 筆者(=栗林)の共感の句は次の通り。(*)印は自選と重なったもの。

015 一本の桜を母とみる夜かな(*)
031 いい女といふに幼き祭髪(*)
043 能舞台一歩は雪を踏むやうに
047 素袷で見送りに来て雨の駅
073 人あまたゐてしづかなる桜の夜
080 二百十日大きな虹の恐ろしき
085 焼きたてのパンの膨らみ鳥の恋
095 この里で終はる命や初蛍
099 黙といふ優しさ通草口開ける
116 数へ日や夢の中まで探し物
119 木蓮のひと雨ごとの傷増ゆる
139 音たてて山霧生るる高嶺かな
153 新米の匂ふ俵や灘の蔵
159 戦乱のなき城の空鷹渡る
167 葦の角一人遊びの好きな鳥

 一読して、平明な、しっとり感のある句集であると感じ入った。女性的な視点の句が、筆者には、印象的であった。選の重なった二句を鑑賞しよう。

015 一本の桜を母とみる夜かな(*)
 これは序文に岩淵さんも書かれていることなのだが、「一本の」とわざわざ断ってあるところを見逃してはいけないだろう。英訳すれば、たった一語の「a」で終わるのかも知れないが、「特定の」という意味をくみ取るべきである。英訳すれば「a specific」とでも言おうか。そして、我々日本人にとって「桜」は意味が深い。しかも、「母とみる夜の桜」である。万感の思いが込められていよう。

031 いい女といふに幼き祭髪(*)
 一転して、ユーモラスな句。「いい女」との出だしで、読者は過剰な期待をして読み下し、下五に至って「やられた」感を抱く。うまい句。しかも読後がさわやか。筆者イチオシの句である。

 なお「ににん」の二十周年記念号で、谷原さんの次の句にお目にかかったことを覚えている。
   月の雨花街の鯉光らせて 

パンデミックと俳句

 前回のこのブログに「新型コロナウイルスと俳句について」の「現代俳句」の随想を掲げた。その2か月後に、同じような趣旨で「俳壇」に寄稿した「トピックスーパンデミックと俳句」をここに再掲させて戴きます。重複する記述がありますが、ご寛恕下さい。

俳壇2020-10.jpg


引用

 金魚の話がある。大戦中や大震災直後の非常事態宣言下では金魚どころではなかった。中国の文化大革命の最中には金魚が粛清の対象にされたらしい。不要不急の贅沢品だからであろう。俳句を金魚に喩える積りはないが「夏炉冬扇」という言葉を思いながら新型コロナと俳句を考えている。
 筆者は、この六月初旬時点でのコロナ禍について、随想文を「現代俳句」(八月号)に寄稿した。しかし、この二か月で状況ははっきり違ってきた。明らかに第二波がやってきている。スペイン風邪の際は一年後だったのに、今回は二か月たっていない。

スペイン風邪と俳壇
 日本が経験したパンデミックの一つであるスペイン風邪は大正七年から九年にかけて三十八万九千人におよぶ犠牲者を出した。人口が今の半分ほどだったので、これは驚くべき数字であり、コロナ騒動とは桁違いである。特に第二波の大正八年は死亡率が八パーセントを超えていたことに大きな恐怖を感じる。当時の政府はワクチンもなく有効な手段を講ずることが出来なかった。マスクを奨励したものの、強力な行動自粛を要請していなかったようだ。
 この頃の大正俳壇でもっとも活躍していたのは高濱虚子であろう。彼はまったく自粛していない。都内・近郊での十数名から百名におよぶ句会の数は数えきれない。遠方にも頻繁に出かけている。関西、九州、北海道など、行く先々でいつも百名内外の参加者で賑わった。
 大正七年での著名な俳人たちの年齢は、松瀬靑々、河東碧梧桐、高濱虚子、松根東洋城らは四十代、臼田亞郎、種田山頭火、尾崎放哉、荻原井泉水、大須賀乙字(スペイン風邪の犠牲者)らは三十代、水原秋櫻子、高野素十は大学に入ったばかり、山口誓子や日野草城も俳句を始めていた。乙字のことは、村山古郷の『大正俳壇史』に詳しいが、スペイン風邪が当時の俳壇全体にどのような表現史上の変化を齎したのかははっきりしない。

コロナ風邪はいまこう詠まれている
 コロナ風邪が盛んに詠まれ始めている。手元にある俳誌「俳壇」におけるコロナ俳句の初めは次句だと思われる。
  パンデミック鎮めの邪景春の月   佐怒賀正美(四月号)
 その編集後記に「新型コロナウイルス(コビット19)の猛威が全国を震撼させています」とある。翌五月号には坪内稔展が「俳壇時評」に「(俳句を)読む能力は濃厚接触する場で育つ」と書き、「俳句は片言」だから読者の読解力と互選能力が必要で、それはインターネット句会では難しいであろう、と述べている。「俳壇」には「作品10句」欄があり、
  パスポートのごと三月の青マスク  朝妻 力(五月号)
  地にコロナウイルス天に初燕    辻恵美子
などのコロナ句が載っている。六月号になると、先の坪内は「(濃厚接触でなくとも)ほどほどに距離をとった関係もおもしろい」と、考えが変わったことを書く。編集部はタイミングよく「室内俳句の愉しみ」を特集している。八木建選の「滑稽俳壇」の特選は次句であった。
  悪化まで検査待てとや春の怪     天童光宏(六月号)
七、八月号の「俳壇」からも抽出しておこう。
  小綬鶏に呼ばれ外出自粛の身     柏原眠雨(七月号)
  間仕切りの下よりおつり枇杷を買ふ  佐々木建成
  首都封鎖やぶるほどではない逢ひたさ 佐藤文香
  誰も彼も春のマスクをして匿名    中西夕紀
  蜃気楼見えてコロナの見えぬ日々   大久保白村
  白地着て解除解除と立ち去りぬ    岩淵喜代子(八月号)
  遥拝も人と離れて安吾寺       星野高士
  疫病(えやみ)の世テレワークの日々野馬の昼  きくちとおる
  コロナ禍の体内時計狂ひ夏      小俣たか子
  テレワークさくら隠しの雪しんしん  石沢シズ
  九条を護るウイルスにかつ大地    田中 陽
 ふり返ってみると、新聞の俳句欄では二月からコロナが詠われ始め、結社誌、同人誌では七月から急激に増えた。コロナが収まるまで続くであろう。

パンデミックと社会の変貌
 奈良・平安の時代から疫病が起こるたびに民衆も朝廷も大きな痛手を受けた。俳句が広まっていた江戸時代、疫病とは違うが大飢饉が起こり、蕪村は享保の飢饉を、一茶は天明の大飢饉(死者九十二万余)を経験しているが、当時の俳諧がどのように変わったのかはつまびらかではない。
 その後の安政五(1858)年、江戸市中で二十八万七千人ものコレラ死者が出た。「適塾」の緒方洪庵が『虎狼痢治準』を緊急出版したのもこの時だった。俳諧には三森幹雄らがいたはずだが、俳諧への影響は定かではない。この後しばらくして幕府が倒された。それはコレラのせいではなく、安政の大地震による疲弊や黒船来航、安政の大獄といった事象が、反幕府勢力の動きと複雑に絡んでいる。
 歴史を俯瞰すれば、気が付くのだが、疫病や自然災害よりも、それがボディブローのように効いて、そののちの「人的な仕組みの崩壊」を招き、それによって大きな変化が起きているようだ。幕府崩壊、経済大恐慌、戦争と敗戦などである。俳句弾圧事件をも思い出す。
 最近のコロナ状況から思うのだが、日ごとの感染者数の増減に一喜一憂するのではなく、長期的な視点に立つ必要があろう。芸術や文学(俳句を含め)への影響、さらにはパラダイムシフトと呼ぶべき大変化は、起こるとすれば、十年二十年のスパンで俯瞰してはじめて見えてくるのであろう。
 十四世紀にヨーロッパを恐怖に陥れた「ペスト」は、結果的に、社会構造をも大きく変えた。それまでは絶大な権力を持っていた教会はペストに対しては成すすべがなく、儀式も祈りも効果を発揮しなかった。その結果生まれた新たな文化が「ルネサンス」文化であった。教会支配の世界から脱却し、人間の解放を試みた。それとともに文化の変革運動が起こり、沢山の新しい芸術が生み出された。
 文学ではボッカッチョの『デカメロン』がヨーロッパ散文小説の範となり、美術では、悲惨だったイタリアを中心に「メメント・モリ(死を想え)」をモチーフに多くの壁画が残された。聖フランチェスコ教会の壁画などである。油絵としては、時代が下がってブリューゲルの「詩の勝利」(1562年頃)が良く知られている。
 では、俳句は何を残したであろうか。ペストは時代が違うので論じないが、スペイン風邪の時はどうであっただろうか。色々調べたが、大正七年頃の俳壇には、先に書いたが、パラダイムシフトに相当する大変化は見られない。
 だが、コロナ禍以降については心配なことがある。コロナ禍による変容を心配する講演(ダボス会議でのエイミー・ウエップ氏)があった。彼女は「コロナ禍のあとはプライバシーの死滅が起こる」という。個人の行動履歴、生体情報などが、防疫を理由に政府や大企業に集められ、個人情報が筒抜けになるからである。国家安全保障の観点からは、絶対主義的国家ではビッグデータの国家管理を企むであろう。これらの情報収集管理は、現在、米国と中国の大企業九社が牛耳りつつあるという。
 また、パンデミックはファッシズムを生む、との警告もある。社会が危機に陥ると民主主義が機能しなくなることがある。人々は恐怖のあまり強権政治を求めがちになり、強制力を持った規制を容認するようになるからである。それが感染症制圧に効果を示すことは確かにある。しかし、ファッシズムに繋がる強権政治は望ましくない。七十五年前、我々は懲りたはずである。

俳句環境の変化
 コロナ関連句が目に見えて増えてきたことはすでに述べた。それだけでなく、俳句環境も変化し始めている。このところ句会が全面的に休止されている。さらなるテレワークの一般化、常態化につれて、孤独な時間が増え、句会の形が変わっている。いろいろなインターネット句会がある。その進化はどんどんと精緻なものになってきている。この流れは、今までの結社の意味合いを薄めるであろう。主宰らの謦咳に直接リアルに接する機会が減るからであり、結社の中の「場」に合わせた作品へのこだわりが少なくなるからである。それは、独りよがりを含む俳句のさらなる多様化を招くであろう。主宰たちは結社の宜しさをどう維持するか、工夫が求められる。

パラダイムシフトはあるのか
 コロナ禍の最中にあった北イタリアのある都市で、現地在住の日本人バイオリニストが病院の屋上から医療従事者への感謝と患者を励ますためにバイオリンを演奏した。その映像が流れて評判となった。筆者も感動を受けた。
 音楽をはじめ芸術は他者に感動を与えるものである。俳句第二芸術論を蒸し返すわけではないが、もし俳句も芸術の一部であるならば、第三者への感動共有を指向することを、このコロナ禍をきっかけに考えるべきなのかもしれない。今まで俳句は、作者が同時に読者であるため、閉鎖空間の中だけの楽しみでしかなかった。
 コロナ禍による俳句というものの構造的変化を予測するため、スペイン風邪以降の状況を調べたのだが、あまり大きな変化には気が付かなかった。俳句という表現形式は、多少の文体の変化は起こっても、新しい事象を如何様にでも盛り込める性格があるし、俳句が社会からある程度距離をもって存在してきたことなどから、形式そのものは恒久的であろうとの考えが筆者にはあった。このことは筆者が先の「現代俳句」に寄稿した通りなのだが、現在のコロナ禍状況に鑑み、長期化による失職者や企業倒産件数の増大、マイナス経済成長などを思うにつけ、コロナの影響をスペイン風邪の直後だけと比較するのは不適切であろうと思うに至った。むしろ、スペイン風邪収束(大正九年)後の、関東大震災(大正十二年)後の、金融恐慌(昭和二年)後の、いや、世界大恐慌(昭和四年)後のパラダイム変化を見ておく必要があると反省した。
 昭和三年、初めての普通選挙で無産党員が八名当選した。特別高等警察(特高)が全国に置かれ、共産党が弾圧された。小林多喜二が『蟹工船』を書いた。新興俳句の始まりが昭和六年、俳句弾圧事件の始まりが昭和十五年であった。文学界ではプロレタリア文学が興り、退廃的世相を反映してエロ、グロ、ナンセンスが流行った。非常事態が起こると、社会は外に敵を求めてファッシズムに走るか、自分たちの権利を守るために社会主義に走るか、二つの選択肢しかなかった。日本は戦争を選んだ。民衆はそれを支持した。芸術も戦意高揚を叫んだ。俳句も、報国を目的とする日本文学会に入れられ、ほとんど何もしなかった。
 コロナ禍のあとも、俳句はそれで良いのだろうか。

 冒頭に金魚と「夏炉冬扇」のことを書いた。「夏炉冬扇」は言い換えれば「夏は扇が、冬は炉が」不可欠であるという意味でもある。ところで、金魚と似た話だが、筆者はネズミの話を俳句の譬えとして話をすることがある。レオ・レオニの童話「フレデリック」(谷川俊太郎訳)の鼠のことである。フレデリックは、ほかの鼠が餌集めに忙しい間、太陽と話をしたり、言葉を集めることばかりしていた。冬になって他の鼠が集めた食べ物がなくなって悲しくなってきたとき、彼は太陽や言葉の話をした。それは魔法のように他の鼠たちを明るくした……というのだ。怠け者のように見えたフレデリックは他者へ光を与えたのである。


随想―コロナ禍と俳句あれこれ

 コロナ禍によって社会や文学(俳句を含めて)がどう変わるのかを推論するのは未来学者の仕事であって、素人が何を予想しても、おそらく当たらないだろう。AIが2045年には(俳句においても)人間と同じ働きをすると言われているが、その予言と同じく、信ぴょう性の高い予測は極めて難しい。しかも、俳句という活動は、人間の他の生命維持的(エッセンシャル)な活動と比して大きなインパクトを持っていない。スポーツ、エンターテインメント、観光とも違って、俳句活動はそもそも夏炉冬扇であり、不要不急な行為だからでもある(実はそこが俳句の宜しさなのかも知れないが……)。
 俳句が始まってからのその変遷を語るのは、俳文学者の仕事であろうが、疫病と関連付けて解説した文献は、筆者の目にはまだ触れていない。疫病とは違うが大飢饉との関連でも、たとえば蕪村は享保の飢饉を、一茶は天明の大飢饉を青年時代に経験しているはずであるが、それによって当時の俳諧かどのように変わったのかは、つまびらかでない。俳文学者にぜひご教示賜りたいところである。
 百年前のスペイン風邪が大正以降の俳句にどう影響を与えたかも興味がある。しかし、調べてみても、後で触れるが、大変化があったという印象は湧かなかった。


コロナ・現俳.jpg


 筆者(=栗林)は、表題の件についての随想を現代俳句協会の月刊機関誌「現代俳句」(2020年8月号)に、寄稿させて戴いた。今、この2021年1月の時点において、新型コロナウイスルの蔓延は収束を見せず、第三波の高いレベルにある。医療資源が枯渇しているにしては、国民の防禦意識は低いように見える。
 日本でコロナウイルス感染が初めて報告されて、今年の一月十五日で一年が経った。昨年三、四月に第一波が、八月には第二波、十二月から第三波とやってきて、国民は感覚麻痺の状態にあるようだ。専門家も政府・官僚も、中国のような、強烈な行動締め付けか、あるいはスエーデンやブラジルのような国民総免疫獲得まで何もせずにおく、という両極端な選択肢が可能な中にあって、経済的疲弊による犠牲者の急増とコロナによる死者の急増のどちらをも収めたいという難しい施策に挑戦している。表面上は、状況に応じて、小出しの政策を出すにとどまっているように見える。
 医学会では、日ごろ陽の当たらないところにいた公衆衛生学者や疫学専門家が、これほど期待される時代はなかったであろう。いままで、医療ドラマでもてはやさるのは、神の手を持つ外科医であったり、患者に寄り添う人間の心を持った医師のドラマばかりであった。官僚も政治家も不慣れな領域の大問題に遭遇し、どんな施策を発表しても、国民も与野党も、賛否両論を言いつのり、政府を責めている。多くの市井の人々は無関心でいようとしていたり、あるいは思考停止に陥っているようにも見える。

 この機会に「現代俳句」に寄稿した文章を抄録させて戴きます。
 
引用
 俳句の歴史的変遷を書いたものは沢山あるが、疫病と関連付けて解説した文献は筆者の目にまだ止まっていない。
 安政二(1855)年には大地震があり、五年には、江戸で七月から九月にかけて二八万七千人ものコレラの死者が出た(「人文地理」第三十巻五号(1978年)による)。このころ俳人としては三森幹雄がいたはずだが、影響はさだかではない。コレラよりもむしろ、安政の大地震による疲弊や黒船来航が明治への政変に繋がっている。
 疫病とは違うが大飢饉との関係でも、たとえば、蕪村は享保の飢饉を、一茶は天明の大飢饉(死者九二万余)を経験しているが、それによって当時の俳諧がどのように変わったのかはつまびらかではない。
 大正のスペイン風邪については後述する積りである。

 阪神・淡路大震災と東日本大震災は、見えるものの激変……流されて行く車や家々や火災……の映像が人々に強烈なインパクトを与えた。しかし、同時に起こった原発事故による放射能汚染については、セシウムやトリチウムが目に見えないがため、俳句は十分には詠えなかった。もちろん、彷徨う牛、浜通りの疲弊した街並み、夜(よ)の森の桜並木などは、目に見えるがゆえに俳句に詠まれ感動を読者に伝えた。友岡氏郷や高野ムツオの句は十分に人口に膾炙している。セシウムと同じだとは言わないが、コロナウイルスは細菌よりも小さく光学顕微鏡では見えない。ウイルスが人々に齎した目に見える部分を俳句の題材あるいはモチーフとして、俳人たちは盛んに詠んで行くことになろう。いや、もうそれは歴然と始まっている。

 コロナ禍はこう詠まれている
 朝日俳壇では、次のような句が選ばれているので、令和二年六月十九日の朝日新聞を引用しよう。
コロナ禍の句がはじめて朝日俳壇に乗ったのは二月十六日であった。
  旅人の如(ごと)くマスクを探しけり    齋藤 紀子
短歌よりも一週間早かった。人々の表情や視線は次第にとげとげしさを増す。
  マスクして徒ならぬ世に出てゆけり   縣  展子
  咳をしたら人目            中村 幸平
  桜咲く生徒不在の校庭に        大井 光隆
四月七日、七都府県に緊急事態宣言が出され、十六日には全国に拡大する。厳しい状態におかれた人の痛みや、為政者のちぐはぐな対応への批判が詠まれた。
  約束のマスク届かぬ杉菜かな      根岸 浩一
人の往来も自粛が求められ、「三密」を避けて人と人の距離感が変わった。
  初孫に会へぬ三月四月かな       正谷 民夫
季節は夏になっても、完全な終息は遠い。今夏の高校野球選手権大会も中止になった。
  今日もまたどこへも行かず蝶の昼    遠藤 嶺子

 結社誌・同人誌でもコロナ句がこの七月、急速にふえた。(高野ムツオ松澤雅世、安西篤、武田真一らくがあるが、省略)

「鷗座」の松田ひろむは、やはり八月号で季語「マスク」論を展開し、大正三年初出の季語だとしている(『新撰袖珍俳句季寄せ』による)。大正三年はスペイン風邪以前ではあるが、明治二十二年にも流行り風邪があったようなので、マスクが既に使われていたのであろう。
 俳誌という俳誌にはかならず「コロナ」や「マスク」が詠われ、論じられ始めた。恐るべき蔓延ぶりである。これには批判的な意見もあろうが、すべては「質」次第である。しばらくは続くであろう。人々は、コロナやマスクを「題材」として、あるいは「動機」として読み続けるのである。地方の小規模の結社誌の通信欄に「この逼塞の世に俳句があって良かったとつくづく思います」とあったことは救いである。古くからの「俳句という表現形式」を信頼している証左なのである。
 もちろん、総合俳誌にもコロナにかかわる俳句や緒論が多くなった(長谷川櫂、大石悦子、寺井 谷子等が紹介されているが略)

 筆者が驚いたのは、同号の青木亮人の記事に、「島村元の父も感冒(スペイン風邪)で息を引き取った」とあったことである。後で虚子の周辺を述べるが、「ホトトギス」に、大正八年一月十二日の例会に「はじめ君は父君逝去のため欠席」とある。この「はじめ君」が島村元(はじめ)である。父は久といい、岡山藩出身の外交官で、能と鎌倉の縁で虚子とは仲が良かった。息子の元は虚子の写生論を進めた若者で、虚子の大きな期待を担っていた。彼はこのあと、虚子との長崎方面への旅の途中風邪をこじらせ、大正十二年八月二十六日に鎌倉で亡くなった。スペイン風邪とは書かれていないが、彼も父同様。風邪で命を亡くしたのである。行年三一。蔓延は収まっていたはずなのだが、ひょっとすると、ウイルスは人々と共存状態に入っていたのであろうか。
 この直後、関東大震災が起こった。

日本でのスペイン風邪
 スペイン風邪が日本を襲った1918(大正七)年から1920(同九)年にかけての統計を掲げよう。今のコロナ風邪に較べて桁外れに大きい数字である。

  流行期          患者数(人)      死者数(人)    死亡率(%)
 第一回(大正7年8月から)21、168、398   257、363   1、22
 第二回(大正8年)     2、412、097   127、666   5、29
 第三回(大正9年7月まで)   224、178   3、698   1、65 
  合計           23、804、673   388、727   1、63


 日本でスペイン風邪が確認されたのは、大正七年、当時日本が統治中であった台湾を巡業した力士団のうち三人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機である。 五月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀、横浜へと広がった。当時の日本の報道では「流行性感冒」であった。だから「スペイン風邪」というキーワードで検索しても古い資料にはヒットしない。たとえば、内務省衛生局発行(大正11年3月30日)の統計報告書の題名は『流行性感冒』とある。平成十七年に東京都健康安全研究センターが出した「日本におけるスペインかぜの精密分析」の数字が前の表である。約三八万九千人もの死者が出た。しかも第二波の死亡率が格段に高い。
 ふり返って思うに、日本で三八万九千の人々が三年間で亡くなったこの大事件が、あまりにもあっさりと過ぎてきたように思えるのは何故であろうか。私見であるが、このあとすぐに関東大震災(大正十二年)が起こり、十万五千人がほとんど一瞬にして亡くなった。建物の崩壊、大火災など、視覚に焼き付く現象が起こった。スペイン風邪は三年で三八万だが、自然界の姿は、山も川も森も花も変わらなかった。しかもほとんどの人々は単なる流行性感冒だと受け止めていた節もある。大震災の目に見えるインパクトが大きすぎて、流行り風邪はその陰に隠れてしまったのだろうか。今風にいえば、記憶の上書きが起こってしまったようである。

スペイン風邪と文壇・歌壇・俳壇
 スペイン風邪が流行ったとき文人・歌人・俳人はそれをどう詠んだであろうか。芥川龍之介はスペイン風邪にかかっており、そのことを大正7年11月の友人への手紙で告げ、
  胸中の凩咳となりにけり   芥川龍之介
  凩や大葬ひの町を練る
という俳句を添えた、とある(「週刊朝日」2020年6月12日号)。呼吸のたびにヒューヒューと音がする自身の病状をこがらしに喩えた一句である。病状はかなり重かったようだ。手元の「現代日本文學全集26」(筑摩書房)の『芥川龍之介全集』の年譜には大正七年に高濱虚子に俳句を師事し、実父を大正八年三月にスペイン風邪で亡くしたとある。
 芥川とともに東大同人誌「新思潮」のメンバーだった久米正雄も、スペイン風邪にかかった一人で、大正八年二月「生死の境を彷徨す」と、先の筑摩書房の全集にもある。「新思潮」メンバーだった菊池寛もそうだったようだ。川端康成は東京を避け、伊豆に遊んでいる。大正七年秋、一高生であった。蛇足だが、このとき川端は修善寺から湯ケ島を旅し出会った旅芸人一座との思い出を描いたのが「伊豆の踊子」である。我孫子に住んでいた志賀直哉には大正八年発表の短編「流行感冒」がある(禁じてあった芝居見物をひそかに観に行った女中の話)。スペイン風邪を題材にした作品は武者小路実篤にもある(宙返りが得意な女中が流行り風邪で急死する話)。
 齋藤茂吉は大正六年末から長崎医学専門学校教授に任じられていたが、長崎を襲ったスペイン風邪を詠んでいる。
  寒き雨まれまれに降りはやりかぜ
     衰へぬ長崎の年暮れむとす  齊藤茂吉
その茂吉も感染し命も危ぶまれ、妻子にも感染した。
 与謝野晶子は、その子の一人が小学校で感染したのをきっかけに、家族が次々と感染してしまった。晶子は「感冒の床から」と題して神奈川県の新聞に「政府はなぜいち早くこの危険を防止するために、大呉服店、学校、興行物、大工場、大展覧会等、多くの人間の密集する場所の一時的休業を命じなかったのでしょうか」と書いた。

 では大正俳人たちの行動はどうだったのだろうか。『定本虚子全句』(松田ひろむ編)によれば虚子の足跡が容易に辿れるのでこれに基づいて述べよう。大正七年当時四五歳であった虚子は頻繁に句会を催し、旅行に出かけている。
 驚いたことに、大正七年二月、「流行性感冒にかゝる」という記述があった。スペイン風邪は当初「流行性感冒」とか、力士が初めての罹患者だったので「相撲取り病」とか言われていた。しかし、それはこの年の五月以降のことなので、この二月の虚子の風邪は単なる流行り風邪であったに違いない。別の資料に興味深い記述を見つけた。
 スペイン風邪の場合、死者の大半は二十代から四十代で占められた。この不思議な現象の答えは至って単純で、1889(明治二二)年以降に生まれた人々は(以前に流行した)インフルエンザにかかった経験がなく、免疫が皆無だった。それ以前の人々はスペイン風邪より症状が軽度ながら、それと似たインフルエンザを経験していたためにある程度の免疫を有しており、その経験の差が生死を分けたのである。(『人類はパンデミックをどう生き延びたか』島崎晋著、青春出版社)(傍線は筆者)

 虚子は1874(明治七)年生れである。だから、すでにインフルエンザの抗体を持っていて、それがこの時の感冒を軽くしたのかもしれないし、その直後のスペイン風邪にも無事でいられたのかもしれない。医学的な証拠がないのだが、日本中が流行り風邪で混乱していたはずなのに、虚子一行は一見平然と日本中を旅している。政府は今と同じように、マスク、手洗い、混雑を避けるよう求め、神戸などの小学校を休校としていたが、一般市民にきびしい自粛を要請してはいなかったようだ。
 大正七年六月以降の虚子の行動は、都内および近郊での句会が目白押しで、いちいち上げていてはきりがない。地方への旅だけを上げてみよう。
 大正七年十月八日夜出発、松山での亡兄三年忌。京阪地方にも数日滞在。下旬帰東。十月二十一日 神戸毎日俳句会、十月二十二日、堺句会。
 大正八年には、一月十二日の例会五五名。(島村)はじめ君は父君逝去のため欠席(前述の通り)。四月十二日、山陰・九州への旅。京都、丹波竹田、丹後舞鶴、城崎、米子、出雲、津和野、山口、福岡(禅寺洞、月斗、風生、紫雲郎など八十人以上)。十一月三日、北海道へ。小樽(長男年尾が小樽高商在学)俳句会五十人。札幌の鉄道倶楽部にて八十人。
 大正九年、気になる風邪の句が一月十一日にある。虚子の夫人いとさんであろうか。
  風邪の妻眠ればなほるめでたさよ    高濱 虚子
 一月二十二日には小樽の年尾が丹毒のため入院したので、急遽、北海道へ向かった。帰京
後、次は京都である。二月二十二日、京都俳句大会一七〇人。二月二十三日、京大三高俳句会。草城、王城、紫雲郎など十八名。蛇足だが、この京大三高俳句会がその後「京大俳句」となる。
 ここで目を引いたのは「大正九年一月二十日、大須賀乙字逝く」という記述であった。スペイン風邪であった。乙字の死去については、村山古郷の『大正俳壇史』に詳しい……大正八年十月、乙字は旅から帰ったとき風邪気味であったが意に介さず、さらにいろいろなところに出かけた。同月二十八日、三十九度九分まで上がり、感冒と診断された。十二月になって病状は一進一退し、年賀状用に次の句を詠んだ。死は予想していない。
  床上げをこの元旦と定めけり      大須賀乙字
 三十日、病状は急変した。それでも一月四日、上京した人の歓迎句会を乙字の家の二階で開いた。賑やかなことが好きな乙字だった。この時の句が絶句となった。
  干し足袋の日南に氷る寒さかな
 一月七日から病状は急速に悪化し、下痢は止まらず、オゾン吸入を始めた。乙字の一子精一(十歳)も風邪で他家に預けられていたが枕頭に呼ばれた。もうまともな会話は出来なかった。大正九年一月二十日午前十時、不帰の人となった。会葬者は堂に溢れた。うら若い婦人が白い項を垂れて棺に泣き崩れた。乙字の教え子で、今は荻原井泉水夫人となった人だった……とある。

パンデミックとその後
 ペスト(原因)はルネッサンス(結果)を引き起こし、文学では『デカメロン』というイタリア散文芸術を生んだという。スペイン風邪(原因)は第一次世界大戦を終わらせた(結果)し、その後それが遠因となってナチス(結果)が力を得る環境を作ったとも言われている。しかし、逆に人間の集団的行動(原因)がペスト菌やコロナウイルスを目覚めさせる結果になったことも事実であろう。大きな感染病の一つであった結核を考えれば、産業革命という人間の集団行動(原因)が都市への人口集中を招き、劣悪な生活・労働環境を生み出し、それが結核菌の増殖(結果)に繋がったし、人間の愚行である戦争(原因)による兵士の集団移動がスペイン風邪の蔓延(結果)を引き起こした面もある。原因と結果は輻輳していて、判断が付きにくいことがある。いずれも海を越えての人の大移動が原因であり、当時は船、今は飛行機である。
 ペストがルネッサンスを齎したと言われているが、これは後追いの結論であった。ペストの最中にそう予言したわけではない。大衆は、ペストは信仰の弱さによって齎されたものだと思った。日本でも奈良時代に天然痘が入って来て百万人以上が死んだ。疫病は悪霊の仕業であると信じられ、東大寺がそのために建てられた。

 コロナ禍が俳句に多く詠まれるであろうことはすでに述べた。だが、パラダイムシフトが起こるという強い兆候は、まだ見えない。スペイン風邪のあとの状況を振り返っても、そうだった。但し、俳句を楽しむ環境は大きく変わるかもしれない。我々はいま厳しい自粛からようやく抜け出そうとしているが(注記、この原稿は令和二年の七月中旬に脱稿している)、この期間中、所謂、「行動変容」があった。市井の句会が全部休止した。大正時代の虚子の状況とは大違いである。テレワークが一般化した。これは孤立・孤独につながる。一人居は俳人の好むところかもしれないが、それは、長谷川櫂のいう、俳句に必要な「場」を失うことに繋がり、ひいては結社や協会の結束力に変化を齎すかもしれない。リアルタイムのテレビ会議のような仕組みでの句会が流行るかというと、それだけの仕組みを支えるコストに市井の句会が堪え得るかどうかは疑問である。だが、間違いなく通信句会は広がって残るであろう。
 ふり返ると、近現代の俳句の変革は、人が作り上げた仕組みが、①崩壊するか、②円熟して倦怠や弛緩を招いたときに起こったようだ。幕府崩壊につぐ西洋文化の流入と子規の「写生」による俳句改革、それに「花鳥諷詠」を加えた虚子王国の確立、それに対抗する秋櫻子や誓子の新興俳句運動、戦時体制強化による俳句弾圧、そして最大のパラダイムシフトは敗戦であった。すべて、①か②が原因であり、パンンデミックや自然大災害は直接原因ではなかった。
 この間、俳句と言う表現形式は存続し、広義の定型=五七五は変わらなかった。封建時代にも自由主義の時代にも、そこに住む人々に俳句はあった。確かに新興俳句弾圧事件は起こったが、その流れは戦後も非伝統俳句群の一つとして生き残っている。伝承俳句から新興俳句が分かれ、敗戦を迎え、社会性俳句が盛んとなり、そして前衛俳句が興り、それから今は大衆化を経て微温的な俳句も、難解な俳句も、ともに幅をきかせるようになった。しかし、どれも五七五を基本とする俳句のままで、自然や人の抒情が詠まれ続けた。長目の破調俳句も、放哉や山頭火のような短いものも、一字空け俳句や多行表記の俳句を含め、五七五感覚を根底に持つ表現形式はそのまま存続するであろう。俳句は古い形式である。俳句という古い形式に新しい事象を詠み込むことは続くのである。兜太は「古き良きものに現代を生かす」といっていたが、世の中の状況がどう変わろうと、それが俳句形式には可能なのである。

 コロナ禍のあとの芸術について、現代美術家の宮島達男が書いている(「第三世界」2020年8月号「アフターコロナ特集」)。関心を持った論点は次の二点である。①東日本大震災以降あまり表立ってはいないが、従来と違うアートの潮流が起こっている。コロナ禍によって、芸術家の死生観が変わることでパラダイムシフトが起こる。②(芸術の働きの一例として)感染が深刻だった北イタリアの街で、現地在住の日本人バイオリニストが、病院の屋上で医療従事者や患者のために演奏し、その動画が話題になった。
 その①について、どのような現代アートの変化が兆しているのかは、述べられていない。まだ顕在化していないのであろう。②については、ふと考えてしまった……俳句も芸術の一つであれば、バイオリニストのような働きが出来ないものか……と。それは、俳句にとって難しいところではある。俳句の世界は作者が同時に読者(受益者)だという閉鎖空間にある。外の世界に影響を与えようとしてこなかった長い歴史がある。コロナ禍は、果たしてそこに楔を打ち込むことが出来るであろうか? それがあるのであれば一大パラダイムシフトとなるであろう。
 レオ・レオニの童話「フレデリック」(谷川俊太郎訳)を思い出した。怠け者の鼠の話である。フレデリックは、ほかの鼠が餌集めに忙しい間、太陽と話をすること、言葉をあつめることばかりしていた。冬になって他の鼠が集めた食べ物がなくなって悲しくなってきたとき、フレデリックは太陽や言葉の話をした。それは魔法のように他の鼠たちを明るくした……という話である。
 俳句はそのような働きができるであろうか。                


土屋遊螢句集『星の壺』

 土屋さんは「小熊座」の同人。このほど平成3年からの作品を400句以上掲げて、該句集をなした。序文は主宰の高野ムツオさん。先代の佐藤鬼房には10年ほど師事していたとあり、そのせいか句柄が鬼房に似ていると思った。令和2年12月21日、現代俳句協会発行。

土屋遊蛍句集.jpg



 高野主宰の選による10句は次の通り。

  月光を載せて傾く皿秤
  霜の夜の赤子わずかに発光す
  蠅生れてはなびら程の影を生む
  三陸の気嵐の底赤子泣く
  朝暁や酢の金色を飯に打つ
  開くたび墓標が見える揚花火
  半身をずずこに埋め童子仏
  大寒の動きて止まぬ牛の舌
  沖よりの宝風とよ白子干し
  座頭鯨の闇陸奥の闇にあり

 栗林の感銘句は次の通り(*)印は主宰選と重なったもの。

016 家中に蛍を放ち寡婦がよし
021 炎天の尾が生えるまで赤子泣く
024 新宿の月轆轤より立ちあがる
025 家中の刃物目覚める望の夜
028 ひょんの笛鳴らして行きし口減らし
031 粗壁の奥に雪降る海がある
046 花満ちて海に疲れの残りおり
049 一湾を鞣してあがる春の月
051 止みし後も雨の音する濃紫陽花
056 かなかなが鳴けば乳張る潮衣
059 米櫃の通草熟れ頃弟よ
063 いつ飛ぶや冬の星座の鳥たちは
065 魚となる寒月光のひとかけら
072 ままごとに水子がひとり苜蓿
073 国防という色のあり山桜
074 麦星や死んでゆく日の含み綿
076 いつ鳥になるか岬の白日傘
088 夕暮は泣く子の匂い枇杷の花
089 風花は空の剥落石仏
091 青墨に菩薩の匂い雪蛍

 このあたりで東日本大震災発生
097 仮葬(かりそう)の土まだ黒し花の下
100 番号だけの亡骸を埋め雪の果
104 泥の手で泥を拭いて四月尽
109 かつて蛇殺めし杖と在らえん
111 浜神楽まず一笛を海へ吹き
114 開くたび墓標がみえる揚花火(*)
120 まだ海を許さぬ婆のちゃんちゃんこ
121 食うて寝てたった百年冬の虹
123 黄泉苞(よみづと)は皸の軟膏母がりに
135 初夏の少女鱗粉零しゆく
138 鮎焼いて煙のような山の雨
147 半身をずずこに埋め童子仏(*)
149 水分の幣新しき豊の秋
155 凍裂や又揺れ動くランプの灯
163 辣韮漬靴みな明日を向いている
168 柿落葉影踏み遊びの影無き子 

 先述の通り、これらの作品を一読して筆者はすぐに鬼房を連想した。筆者は土屋さんの氏育ちを全く知らない。「小熊座」でそのお名前を承知している程度で、男性か女性かも分からなかった。ムツオさんの前書きからはじめて女性だと知った。それで赤子などが句に出て来るし、〈016 家中に蛍を放ち寡婦がよし〉という句もあって、納得した次第であった。お名前にある字の「蛍」からすると、女性の可能性はあったわけだが、自信はなかった。というのは、句集全体から来る印象が、陸奥の海の匂いをぷんぷんと発散させているし、男性的な印象のものであっって、句の味が、私にとっては、鬼房のそれに似ていたからでもあった。 
 全句を読み通して、筆者はこの句集に「いぶし銀」のような渋さを感じた。一句だけ鑑賞しよう。

114 開くたび墓標がみえる揚花火(*)

 東日本大震災の後の句である。ムツオさんも序文に書いているが、「墓標」とあるから、まだ墓石が建っていない土葬の仮の場所にたてた杭のようなものかも知れない。〈097 仮葬(かりそう)の土まだ黒し花の下〉があるので、そうと予想される。墓標だから、卒塔婆ではなかろう。揚花火が開くたびに、それらが闇から現れるのだ。鎮魂の花火大会なのであろうか。それとも、東北地方に多いと聞くが、お盆に死者を迎えるための、ごく個人的な揚花火なのであろうか。詳細は分からないが、読者の心に重く響く一句である。

石倉夏生句集『百昼百夜』

 石倉さんは「響焔」(和知喜八創刊主宰、山崎聡名誉主宰、現主宰は米田規子)の同人で、かつ「地祷圏」代表であられる。該句集は、2020年12月25日、本阿弥書店発行。第二句集。


石倉夏生句集.jpg


 自選12句は次の通り。
 
  甚平といふ精神に腕通す
  天寿なり春の柩よ帆を上げよ
  人間が重くてならぬ大夏野
  すぐそばの未来へ跳べり蟇
  一瞬をいくつも繋ぎ椿落つ
  映りたきものを映して冬の沼
  遮断機に尾を切られたる春一番
  戦死者の数の寒星息づけり
  逃水の一瞬ゲルニカを映す
  春眠のうすむらさきの金縛り
  猛りつつ野火は麒麟をこころざす
  遺されてまた八月をくり返す

 筆者の共感句は次の通り多数に及んだ。(*)印は自選句と重なったもの。

011 大毛虫ボレロのリズムにて進む
012 眼を離すとき白桃の身じろげり
012 切れ味の良き秋風と橋渡る
015 冬の鵙とは夭折の画学生
018 封筒の中はむらさき雛の夜
020 陽光にずぶぬれの柿若葉かな
030 微笑みに拒絶の混じり夏帽子
035 天の川華厳の滝へ繋がれり
035 視線からませて菊人形同士
036 砂丘生まれの秋風と岬まで
039 冬帽子かぶるや遺失物のやう
043 手紙来る冬青空の筆致にて
044 雪の降る速さのラストワルツかな
046 天寿なり春の柩よ帆を上げよ
046 桜咲くたび父は戦死をくり返す
048 美しく刃の通りたる桜鯛
057 恋猫の瞳孔は岡本太郎
070 これが母の有季定型柏餅
072 古傷の上に擦傷桜桃忌
073 八月や死者も生者も水を欲る
081 映りたきものを映して冬の沼(*)
082 抱擁を考へてゐる懐手
086 咲き終へて木々に紛れる桜かな
086 しやぼん玉の一つ一つに空を詰め
101 音の無き叫びの釣瓶落しかな
112 死の音す日傘の骨を開くとき
118 遮断機に尾を切られたる春一番(*)
118 恋猫の一夜あれから只の猫
120 男雛より思慮深き眼の女雛かな
127 砂時計の三分間も夜長なり
128 赤い鴉が孵りさうなる烏瓜
131 純白の火花を散らす花八手
134 映画館出るや映画と同じ雪
137 竹馬の兄の高さを憎みし日
144 空襲の夜の色なり凌霄花
157 選ばれて遠くまでゆくしやぼん玉
160 母の日の長女も次女も猫も母
165 蟋蟀が夜を静かに碾いてゐる
165 愁思こま切れ鉄橋の新幹線
173 名犬になれず枯野をひた走る
182 ここまでが夏野ここからアスファルト

 筆者(=栗林)の好みに合った句が、きわめて多かった。この句集の特長を一言で言うと、切れ味が良く新鮮な言葉を、巧みに使った平明な俳句作品集である、と言えよう。有季定型だが決して古くない。

 切れ味が良く新鮮な言葉、と言ったが、それらとしては、例えば、

012 切れ味の良き秋風と橋渡る    の「切れ味の良き秋風」
020 陽光にずぶぬれの柿若葉かな   の「陽光にずぶぬれの」
036 砂丘生まれの秋風と岬まで    の「砂丘生まれの秋風」
043 手紙来る冬青空の筆致にて    の「青空の筆致」
044 雪の降る速さのラストワルツかな の「雪の降る速さのワルツ」
046 天寿なり春の柩よ帆を上げよ   の「柩よ帆を上げよ」
048 美しく刃の通りたる桜鯛     の「美しく刃の通りたる」

などが挙げられる。これらの言葉が対象を的確に、しかも、使い古された言葉でなく、自らが創造した、やや長い言葉で描写している。だから必然的に配合の句が少なく、一物句が多くなる。芭蕉のいう「黄金を延べたる」ような美しさが生まれる。それらの工夫された措辞が、「平明」な作品を「平凡」から救っていて、新鮮さを与えている。例えば、

046 天寿なり春の柩よ帆を上げよ
    
は天寿を全うした方の葬儀で、「柩よ帆を上げよ」によって、その大往生を寿ぐような気持ちを表わしている。悲しかるべき葬儀にしては珍しい句である。この句から筆者は、黛執の次の句を思い出した。
  桃さくら婆が焼かれて戻りけり   黛 執  『野面積』より
黛の自解にこうある。「九十歳をとうに超えた老女が、ぽっくりと逝った。昨日まで元気な姿を見せていた婆の突然の死に、人々は天寿を称え、死に様の見事さを羨んだ。通夜の席では長寿を祝う紅白の饅頭が会席者全員に配られた。折りしも葬家の庭前には、桃と桜が満開であった」。
 有難う御座いました。

西村和子句集『わが桜』

 西村さんの第八句集である(角川文化振興財団、2020年7月25日発行)。西村さんは昭和41年に「慶大俳句」に入られ、清崎敏郎に師事。平成8年に行方克己氏とともに「知音」を創刊し、代表となっておられる。句集以外に多くの著作があり、俳人協会新人賞、俳人協会賞、小野市詩歌文学賞、俳句四季大賞、俳人協会評論賞などを受けておられる。テレビの俳句の時間でも活躍であられる。


西村和子句集.jpg


 自選12句は次の通り。

  流水の通奏低音夏館
  たんぽぽの絮は吹くより蹴つとばせ
  水音は冬へ落葉の音午後へ
  菠薐草男(を)の子ふたりに血を分かち
  花便り待つや京にも我が桜
  うき世より一寸浮きて梅雨籠
  草の根の力を恃み七日粥
  枯れてなほみ仏に夢見る力
  恋人より恋心惜し革手袋
  身の内の隙間風聴く夜の底
  流氷のひそと寄せ来てひしと組む
  若布干す虫養ひにつまみつつ

 筆者(=栗林)の共鳴句は次の通り。

009 路地どれも海にぶつかるつばくらめ
016 炎帝へ百の敬礼総展帆
023 ししうどの花したたかにしとど濡れ
037 燃えばなの薪ストーブの香の甘き
038 暖炉燃ゆ言葉醸すに時をかけ
042 落城ののちも照らせり冬の月
042 落葉踏む敗者に心傾きゆく
070 三人の一人は無言ソーダ水
082 朝寒やマンホールより湯気の濃く
084 鯊を釣る人間界に背を向けて
093 誓ふとは打ち明けぬこと初参
098 刺客我が身の内に棲む余寒かな
102 幸せは似たりよつたりチューリップ
104 曲水の宴や衣冠の男佳き
110 不風死岳(ふっぷし)の眉間に深く雪残る
115 山祇の息吹きかへすやませかな
117 キャプテンと呼ばれ少女の汗光る
119 秋刀魚焼く隣も長の湯治客
130 狐火のひよつと振り向くことのあり
140 初句会鬼籍の人も呼び出さむ
140 手袋を弄びつつ謀
142 惜しげなく肘をあらはに投扇興
143 投扇興老女もつとも力抜き
144 焼鳥屋灯点し路地を暗くせり
145 休む間も姿崩さず寒稽古
158 初富士や噴火寸前かも知れず
159 薪を抱く炎やはらか春暖炉
170 チューリップ好きな色しか見てをらず
180 投げやりの男をどりの佳かりけり
188 片袖にくさめ隠せる舞妓かな
190 煤逃や用あるごとく駅までは

 日本各地に氏が特別に好む「桜」があり、そこから「わが桜」を句集名とした。「桜」のほかに茶屋遊びの粋な句、男友達の句、酒席の句などが、しっかりとした叙景句・叙物句の中に鏤められている。
 筆者の琴線に触れた句が沢山あったが、二、三鑑賞しよう。

023 ししうどの花したたかにしとど濡れ
 筆者(=栗林)の好みの花である。特に北海道の原野に一、ニメートルの高さに直立して白いレース状の花を咲かせる。野性味のある夏の花である。毅然として雨に濡れている姿が見える。

082 朝寒やマンホールより湯気の濃く
 ニューヨークとの前書きがある。暖房用の蒸気配管が地下空間を通っていて、古びているのか、メンテナンスが悪いのか、漏洩した蒸気がマンホールから漏れている。映画などでもよく見る景である。日本では見られない都会の風景。

102 幸せは似たりよつたりチューリップ
 ずいぶん昔、高校生の頃だったと思うが、小林秀雄だったか、ある著名人の講演を聞いたことがある。その中で「人の喜びは個性がないが、悲しみは一人ひとり事情が違っていて、実に個性的なのだ」という話が合った。だから、喜びよりも悲しみがより文学性に富んでいるのか、と納得したものだった。まさに「幸せは似たりよったり」であるり、チューリップの配合がうまい。

140 手袋を弄びつつ謀
「俳句」2020年10月号で、仁平勝がこの句を鑑賞しているが、もじもじとしおらしそうに手袋をいじっている女性は、内心では何かを企んでいるのだ、という如何にもありそうで、奥のある句であろう。エスプリの効いた句。

180 投げやりの男をどりの佳かりけり
「男をどり」だから、阿波踊り、郡上踊り、おわら祭などを思う。特に、筆者(=栗林)は老齢の男の人の踊りを思った。激しくなく、ゆったりとしていて、どこか省略化した踊り方なのである。しかも、十分に修練を積んだ名人的な踊り方である。よほどの「通」の踊りである。それを「投げやり」と言った面白さ。実は決して「投げやりではない」完成された「型」の踊りなのであろう。筆者イチオシの句。

谷口智行編『平松小いとゞ全集』

 著者の谷口智行さんは「運河」(茨木和生主宰)の副主宰兼編集長。句集『星糞』やエッセイ集、評論集などが数多い。紀南で医師をなさっておられる。2020年12月20日、邑書林発行。


谷口平松全集.jpg


 谷口さんが、俳壇史にあまり知られていない平松小いとゞの全集を編もうとしたきっかけや目的を、筆者は、まず知りたいと思った。
 この書の末尾に谷口氏が書かれた解説が役に立った。氏は過去に、俳誌「運河」に、夭折(戦死)の同郷の俳人、平松小いとゞを紹介したことがあった。その後、邑書林の島田牙城氏より虚子選の『五人俳句集』を贈られ、その五人の中のひとりが平松小いとゞであった。その縁で、島田氏から、小いとゞ顕彰の書を出版することを強く勧められた(ちなみに、この『五人俳句集』は島田氏の父島田刀根夫の遺品から見つかったものだった。筆者(=栗林)の記憶では、刀根夫は竹中宏さんの「翔臨」のメンバーでもあったと思う)。この『五人俳句集』がこの書の編纂・出版のきっかけとなったようだ。
 次に刊行の目的だが、平松小いとゞの短い俳句人生を総整理し、その俳句作品や、中国河南省で戦死するまでの二十七年八ヶ月の生きた証を世に知らしめることであり、かつ、小いとゞへのオマージュの意図があったのであろう。このことを谷口氏は次のように丁寧に記している。

 本書刊行の目的は、戦争に翻弄された夭折俳人の鎮魂(たましづめ)としてだけではない。自然に親しみ、家族を愛し、故郷を愛し、いかなる時も虚子の教えを純粋に実践し、それを全うした一人の青年を心から祝福したいと思ったからである。

 平松小いとゞは、和歌山県の新宮市に生まれ、第三高等学校から京都帝国大学に進み、法学部を卒業し、東京の法曹界で活躍するはずであったが、昭和十七年二月に召集されてしまった。昭和十八年、少尉任官。昭和十九年二月、北支方面軍として門司港から出征。六月五日、河南省霊宝付近にて尖兵長として戦闘中、敵弾を顔面に受け、翌七日午後戦死……と略年譜にある。
 
 谷口さんは、小いとゞの俳句作品、エッセイなどを、小いとゞの父で俳人の平松竈馬が興した俳誌「熊野」、父とともに投句していた「ホトトギス」、虚子が編んだ『五人俳句集』、三高・京大生時代に属していた鈴鹿野風呂の「京鹿子」などを丹念に調査し(友人の黄土眠兎、森奈良好両氏の迅速かつ丁寧な協力があった)、かつ、略年表を編んで、小いとゞの膨大なデータベースを作成した。

 該著のきっかけとなった虚子編『五人俳句集』に触れれば、その一人は先述の通り小いとゞであり、他の四人も同じく京大三高俳句会の同人で夭折の人々であった(清水能孝、グアム島にて戦死。日野重徳、同。菊山有星、比島北部にて戦死。上田惠、北海道の美唄炭鉱にて客死)。

 小いとゞの作品に触れよう。

「ホトトギス」への初の入選作は、西山泊雲選のよる次句であった。わずか九歳であった。
014 木の枝に浴衣をかけて夕すゞみ
 虚子選による初入選は、昭和三年、十二歳のときの次句であった。
023 野遊につゝじを掘つてきたりけり
 並外れた俳句神童であったようだ。小学四年の頃から父竈馬が創刊した「熊野」や、その後の「家庭俳句会」を通して、小いとゞは俳句の力を伸ばして行った。
 花鳥や家族を詠う小いとゞ句の全八四七句から、ここでは、筆者(=栗林)が強い興味を覚えている「実戦に身を晒した作品」を挙げてみたい。なぜなら、多く知られている同時代の「戦火想望句」には、個人的に、何となく違和感をもっていたからである。

103 春眠の夢の涙は玉をなし(昭和十八年)
110 玄海を征途の一歩二月尽(昭和十九年、以下同じ)
110 雁帰り臣がいのちは明日知らず
111 菫咲きあたゝかけれど敵地なる
111 朧夜はふるさと恋し便り欲し
112 仮陣に薔薇活けさすも我がこのみ
113 尖兵(せんぺい)長(ちやう)命ぜられ麦畑に地図ひろげ
113 麦畑を匍匐(は)ひゆくはたと弾丸低し
114 部下を焼く川風寒くほのほ打ち
114 土に穂麦に地雷禍の肉とび散りぬ
116 雨季闇黒地図に灯せず四面楚歌
116 地図の道雨季がつくりし川に絶ゆ

 そして最後の句

116 緑陰より銃眼嚇と吾を狙ふ

季語「緑陰」がこのような使われ方をするのである。まさに戦場である。

 該著を読んでつくづく思わされたことは……俳句の世界には、平松小いとゞのような俳句愛好家が数知れないほど多くおられ、俳句で世に知れ渡る前に亡くなられた人々が如何に多いか、ということである。しかも戦争で、である。筆者も、片山桃史(東部ニューギニアにて戦死)、長谷川素逝(内地送還後逝去)や井上白文地(ソ連の捕虜となり行方不明)くらいしか知らなかった。
 もう一つ印象深かったことは、小いとゞが京大三高俳句会にいながら、「京大俳句」とは距離をおいており、虚子を尊敬・絶対師事する「ホトトギス」人であったことである。

 改めて目を開かせて戴いた該著に感謝しております。

橋本喜夫句集『潜伏期』

 橋本さんの第二句集『潜伏期』(令和二年五月三十日、書肆アルス発行)を読む機会を得た。氏は平成二十八年から「雪華」(前主宰は深谷雄大さん)の主宰を継がれ、「銀化」(中原道夫主宰)にも属されている。お生れは道東の霧多布で、旭川や釧路で医療に従事されておられ、現在(12月27日)、旭川では新型コロナウイルス蔓延で大変な時機を迎えていると承知している。加美俳句大賞スエーデン賞や北海道現代俳句協会賞を受けておられる。中原さんの序句〈笹鳴や雌伏それとも潜伏期〉と帯文があり、次の橋本句が引かれている。

061 まだ融けぬ二人使の唇の雪
 なお、二人使(ふたりづかひ)とは、死亡を伝えに行く際、二人が一組になって行く、という習わしをいう。

橋本喜夫句集.jpg


 自選十五句は次の通り。

  薔薇匂ふいつも何かの潜伏期
  ルビをふるやさしさに似て春の雪
  曼殊沙華疫病(えやみ)は海を渡りけり
  ゆるやかに地球を縛す天の川
  まだ融けぬの二人使(ふたりつかひ)の唇の雪
  誘蛾灯自爆のあとのしづかなる
  短夜や運び出されてゆく臓器
  父逝くや小春日を背に置くやうに
  いつもどこかに夏風邪の妻がゐる
  病む妻に月を送信して眠る
  ホワイトアウト妻は今朝瞑りたる
  清流になりたし螢病むゆゑに
  うすものの抱きくづれたるかたちかな
  地吹雪を破船のやうに歩きけり
  長き長き霧笛そして爺になる

 全編を読むと、この句集は慟哭の句集であることが分かる。父君と、最愛の奥様を失った悲しみが詠われている。特に奥様の句が数の上からも、その重々しさからも、読者の胸を切々と打ち、迫ってくる。

143 父死して新米の飯炊かれけり
174  十二月四日早朝妻逝く
    ホワイトアウト妻は今朝瞑りたる
183 初夢の妻はふたたび死ににけり

 橋本さんは「俳句が生身の身代わりになって、慟哭してくれたため、自分はなんとか正常な精神状態で仕事(医師)をこなし、生きて来られた」と、あとがきで俳句に感謝している。それほどにつらい日々であった。
 その暗闇の中にあって、光差す作品が、もちろん、ある。筆者(=栗林)はそのような句群の中から次の一句を選んだ。

019 檣頭(しやうとう)に触るるものなし天の川

 該句集の比較的初めの部分に出て来る一句。初めの部分にあってさえ、屈折の多い言葉が多く、死を詠み、何かが「潜伏」していると感じている作者であり、この句集『潜伏期』である。悲しみのいっぱい詰まったこの句集にあって、掲句は筆者には特別の一句に見えた。端正で静謐な自然詠、写生詠である。解説をするまでもないだろうが、夜といっても、檣頭(ヨットのマスト)は明るく見え、上空には天の川が輝いている。濁世を離れて、作者の心は天の川に通じているようだ。

 もう一句追記させて戴こう。末尾に次の一句がある。この句を読んで、筆者はほっと安心した。橋本さんの幸多い余生を願う次第である。

225  息子夫婦に子が。妻も見ていると思う。
    長き長き霧笛そして爺になる

 そのほかに、筆者(=栗林)が感動を覚えた句を掲げて、お礼に代えさせて戴きます。

046 略歴に略されてゐる枯山河
088 降る雪のたやすく過去となりにけり
099 わが使ひ古しの臓器明易し
125 湯を抜いてさみしき柚子に戻りけり
132 来ぬひとを故人と思ふ桜かな
172 水洟やわれ遺児めきて立ち竦む
192 鳥になる約束をして雲に入る
196 ねぎらひを弔辞と思ふ夕桜
224 はつあらし死にゆくものに嘘少し

若森京子句集『蠟梅』

 若森京子さんは赤尾兜子の「渦」におられたが、昭和五十三年金子兜太の「海程」に入り、爾来、兜太に心酔されたようだ。六十年には海程賞を得ている。また、三田市や兵庫県からも賞を受けておられる。現在「海原」同人。この句集は兜太へのレクエイエムだと、あとがきにある。令和二年十二月二十一日、文學の森発行。文庫本サイズで、手になじむクロス貼り・箱入りの豪華本である。


若森京子句集.jpg


 自選句は次の十二句。  

  絽のきもの解けば万のうすばかげろう
  獅子座流星群爪立ちて晩節よ
  蠟梅やシルクロードの荷をほどく
  とうすみとんぼ妊りて透く暮らし
  子規にふれ蓑虫にふれ国家論
  春眠や球体感覚のままがいい
  兜太なき憂世の羅はりついて
  葦刈小舟うかうかと文字を刈る
  空蝉の中に風吹く無言館
  蓑虫に風が母の羅紗の匂い
  幻聴かしら凍蝶一頭と暮らす
  桃の日や八十年の朦朧体

 筆者の共感句は次の通り。(*)印は自選句と重なったもの。

011 二階より陽を入れ深海魚のごとし
021 絽のきもの解けば万のうすばかげろう(*)
031 どこかに戦争榠樝一個に微熱あり
042 折鶴は千枚の紙八月来る
045 病窓に小舟漕ぎ着く月の夜
052 蠟梅は蠟涙ためてためて咲く
053 古書店に蹄の音す菜の花忌
054 補聴器に蝶のささやき棲みついて
056 二度寝して巣箱に棲みしここちする
062 原爆ドーム鳥籠のよう飛蚊症
066 筆圧の残る昭和よつくつくし
080 戦場を知らず肉焼く花の下
097 世の隅をわれたのしけれ菊枕
102 蠟梅のほのかな家路また転ぶ
106  二月二十日兜太先生逝去
    白梅のような骨を拾った熱かった
112 青梅を捥ぐはるかより青馬一頭
119 木の家に生まれ歿後も木の実降る
126 むらぎもに梅がちらほら青鮫忌
137 紗をまとい忘却にある炎(ほ)のゆらぎ
137 蚊帳吊し人の匂いの青い遺書
139 空蝉の中に風吹く無言館(*)
151 蠟梅のあかり老師のレクイエム
155 胸倉はくらがりとうげ椿落つ
159 桜トンネル親しき亡霊のあまた
160 近づく日モルフォ蝶と渡りたし
162 夕顔の朝たたまれて国憂う

 この句集を一言で言い表すは難しいが、敢えて言えば、金子兜太へのレクイエムであり、それはそのまま兜太さんへのオマージュでもある。そして、もうひとつ。老いてゆく自身を冷静に見つめ詠った句集であることであろう。筆者が共感を覚えた句の内、左の作品は若森さんの死生観を述べたもののようである。

011 二階より陽を入れ深海魚のごとし
097 世の隅をわれたのしけれ菊枕
119 木の家に生まれ歿後も木の実降る
155 胸倉はくらがりとうげ椿落つ
160 近づく日モルフォ蝶と渡りたし

「海程」系列の末席に居るものとして、この句集『蠟梅』を、ありがたく、楽しませてもらいました。

俳人ー橋爪鶴麿さんを偲んで

また俳句の先達が亡くなられた。橋爪鶴麿さん、令和2年10月22日、享年93。氏は「麦」(現会長は対馬康子さん)の元会長で、現俳の「現代俳句」の編集長をされていたことがある。筆者栗林は、その鶴麿さんに2015年7月13日にロングインタビューをさせて戴いた。その時の写真を掲げよう。5年ほど前のことであった。


 橋爪鶴麿さん.jpg


 取材内容は、例によって拙著『昭和・平成を詠ん』(書肆アルス発行、http://shoshi-ars.com/)から一部を抜粋して、紹介させて戴こう。

引用 

 橋爪鶴麿 昭和二年三月二日生まれ 平成二十八年末現在 八十九歳。 

 永年俳句を研鑽されてこられた橋爪鶴麿さんを訪ね、「昭和・平成を詠んで」をテーマに、お話を伺った。まず氏の生い立ちと、俳句との係わりから始めよう。

一、生い立ち
橋爪 昭和二年三月に生まれました。先祖は紀州藩の鶴を飼育する綱差(つなさし)の家柄でして、将軍吉宗の江戸城入城に従って江戸に入り、屋敷を与えられ、大森で鶴の飼育にあたりました。明治維新の幕府瓦解により廃業しましたが、曽祖父は綱差役にかわって、明治政府から神官役を命じられました。私の「鶴麿」の名は父が祖先の生業を留めるべく名づけたのだと聞いています。橋爪家の墓地は現在も大森にあり、鶴の供養碑も建てられてあります。でも、詳しいことは分かりません。父の資料が長持ちに一杯あったのですが、戦災で焼けてしまいました。読んでおけば良かったと思っています。
――筆者注 鶴麿さんのお話には「鶴」のほかに「鷹匠」「狩場」「鶴御成」などの言葉が出てきたのだが、少し解説しよう。
江戸幕府の初期の将軍家康や家光は狩を好み、将軍の権威の象徴としての鷹狩をよく開いた。六代将軍綱吉が「生類憐れみの令」を敷いたことで鷹狩は中断されたが、八代将軍吉宗はこれを復活。特に紀州や伊勢では鷹狩が盛んであったらしい。
 鷹は普通自分よりも大きな獲物は襲わないが、訓練により鶴をも襲うようになる。その訓練の役が「鷹匠」(世襲)であり、幕府の重役の下できちんとした階層管理の元にあった。将軍が狩場にお成りになり、鷹を放ち、獲物の鶴を仕留める際、その鶴を飼育しておくのが綱差であり、鶴麿さんの祖先はその役だった。鶴は京都の天皇に送られる。これが「鶴御成」である。

二、俳句との係わり
橋爪 俳句の師は中島斌雄先生でした。中島先生に会うことを奨めたのは、旧制中学と慶応義塾大学の先輩に当る櫛見充男氏でして、慶大俳句研究会の発足句会の帰路でした。櫛見氏は府立七中時代に中島先生に国語を習った一人だったのです。昭和二十一年、終戦直後のことでした。
 その旬日後に「麦」の前身の「塔」の句会に出席しましたが、当日の先生の句は、

   赤ん坊腕(て)にやはらかし虹仰ぐ    斌雄

でして、戦後の焦土の中での風景ながら、温かい人間愛とやさしさに満ちたその傾向に大きく魅了されました。「麦」の創刊に参加したのは、この句との運命的な出会いの結果だと言ってよいと思います。
 昭和二十二、三年年頃、私が慶大俳句研究会でもっとも影響を受けたのは楠本憲吉氏です。氏は昭和二十三年慶應の法学部政治科を卒業後、二十五年には文学部仏文科に入っています。「なだ万」が家業ですが、日野草城らを擁し俳壇で活躍しましたね。一方、早稲田出身ですが富澤赤黄男の印象も鮮明でした。一度、憲吉氏に赤黄男たちの句会へ連れて行ってもらったことがあるんです。当時の空気の中で、新しい傾向に憧れたんですね。
――筆者注 鶴麿さんの第一句集『ゴンドラの月』の跋文を、楠本憲吉が書いている。憲吉は鶴麿さんに初めて会った時の印象を「少年クラブの表紙絵のような童顔で、顔面一杯に笑みを湛え、健康優良児のごとき厚い胸を張って『橋爪鶴麿』です、と名乗った」とある。
橋爪 その後、昭和二十二年に「麦」同人となり、編集を担当しました。昭和二十五年には、慶応大学を卒業し、鐘淵紡績に入社、富山県高岡に勤務。爾来、静岡・大垣・群馬・大阪と転勤を重ねました。昭和四十一年には、関連会社の役員として帰京。その後、京都府長岡京市・東京・長野などに住みました。鐘紡のアパレル関係事業に係わり、ファッシヨン業界の激烈で賑やかな環境を楽しみました。制作から販売までを手掛け、会社の合併や買収・整理など幅広い経験を持ちました。昭和六十二年、鐘紡を退社。昭和六十三年、中島斌雄先生逝去。平成六年、現代俳句協会常任幹事就任、「現代俳句」編集部長。平成十六年、「麦」の会会長と続きます。
――筆者注 ここで師の中島斌雄に触れねばなるまい。「俳句」昭和六十三年六月号が斌雄の追悼号であった。鶴麿さんを含む多くの俳人たちが斌雄の秀句を上げている。

 金子兜太は 置手紙西日濃き匙載せて去る
       陽炎にどうとたふれて勞疲れけり

 などを掲げ、「西日濃き匙」が「ひどく新鮮だった」といい、「氏は現実主義を生涯にわたって貫いていた、と私は見ている。社会性の展開に与し、前衛の活動を支援したのも、早見えのお先走りではなく、氏が求める現実主義の路線に適っていたからである。新風を真風たらしめんとしていたのだと思う」と賛辞を書いた。

 中村苑子は 子へ買ふ焼栗(マロン)夜寒は夜の女らも

を掲げ、その知性で包んだ社会性のある作品を「俳論も進歩的でありながら綿密・おだやかな中庸性の理論で読者の信頼を得ていた」という。

 原子公平は 麦を蒔く風強ければ躬を曲げて
 酒井弘司は 爆音や乾きて剛(つよ)き麦の禾(のぎ)
 橋爪鶴麿は 酒のまぬ生涯の谿夕ざくら
   
――筆者注 鶴麿さんは斌雄の「実体への肉薄」に示される描写の深化に畏敬の念をもったと思われる。今考えると初期に斌雄が主張していた「実体への肉薄」ということは「胸中山水」と同じ意味ではなかろうかと、鶴麿さんは思っておられるようだ。つまり、対象を一度自分の腹に取り込んで咀嚼してから表現過程に移るのだ、という。この辺りをいつかきちんと書いておくべきかも知れない、と仰っている。
 一方で鶴麿さんは、人生派としての加藤楸邨の句に揺曳する、生きることへの問い掛けの句風にものめり込んで行った。
橋爪 当時私は、熱心に「寒雷」を読んでいました。楸邨の次のような句に刺激を受けたんです。 

  鰯雲人に告ぐべきことならず
  蟇誰かものいへ声かぎり
  木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
  冬嶺に縋りあきらめざる径曲り曲る
  冬の浅間は胸を張れよと父ちちのごと

「俳句界」平成二十六年四月号に、楸邨の〈冬嶺に縋りあきらめざる径曲り曲る〉について、短い鑑賞文を書きましたが、この句に、己を偽らず本当の声で力強く気持ちを打ち出していることに共感しました。私が、俳句でものが言えると感じさせてくれたのは勿論、その後も俳句を続けさせたのは、師斌雄への思慕と、楸邨の作品の魅力の双方が大きかったと思うのです。
――筆者注 しかし鶴麿さんは「寒雷」には入らなかった。とはいえ、斌雄の社会性を帯びた実体への肉薄と楸邨の人間探究派的持ち味を重ね持った鶴麿さんの句柄は、ここに源泉があるように思える。
橋爪 私が俳句を創りはじめた頃、斌雄先生から教わった先ず第一番は、「実体への肉薄」という、対象の深奥にじかに接するような実感があり、触れれば切れるような真実性を持つ作品ということで、二番目には、作者の態度として、自分自身の生きている姿をさながらに詠い、「生きるたしかめ」として作品を創り出すべきだ、ということにあったように思います。
前者は単純な「写生」「花鳥諷詠」という虚子の称えた作り方から脱して、もっと対象の真実に迫ろうということで、季節の言葉に寄掛かるようなことを止めて、自分の目で確かめ、むしろその対象のもっている表層のものでなく、奥深いところまで見ることによって感応するところのものを把握しなさい、ということだと思います。
 また後者は、「何故俳句を創るのか」にかかわる問題ですが、自己表現の手段として俳句を選んだ者としては、当然のことと受取れますが、つい忘れがちになるための警告とも考えられます。
―――ところで斌雄先生の句でお好きなのは?
橋爪 斌雄先生を語る上で落してならないのは、昭和四十三年に北軽井沢に「月土山房」を開いてから、同地での生活と思索の結果が生れた次の作品です。
   涸れ川を鹿が横ぎる書架のうら  (昭和四七年)
   鯉裂いて取りだす遠い茜雲    (昭和五三年)
   鱒となり夜明け身を透く水となり (同)
ここにあるのは、現実世界を起点としながら、新しい自然秩序への思いがあり、過去の多くの経験を通して、より深く再構築を果そうとした作品です。

三、俳句への思い入れ、俳句とは何か
橋爪 いろいろな人からの影響もありますが、現在の俳句の在り方を、「心の発露を社会の中で訴え、自由な拡がりの中から、生きる確かめを十七音にしてゆく」という方向へ、自分の志向をむかわしめました。この背景の一つには、卒業論文に選んだジャン・ジャック・ルソーの「人間不平等起源論」の影があると見ていいと思います。つまり世の中は不公平なものであり、不条理なことが往々にしてある。そのことを意識した態度で俳句作品を作るということです。


引用終り

 このあと
四、「現代俳句」編集長として
五、作品から見えてくるもの
六、戦災
七、俳壇へのコメント

などがあるが、戦災(ここでは東京大空襲)の経験は、語る人がだんだん少なくなってきた。

取材したあとの感想に、筆者はこう書いていた。

 鶴麿さんは、終始ぶれないで生きて来られた。氏は中島斌雄の教えに従って、対象の「実体に肉薄」し、対象を「胸中山水」化し、「私」を発信することを心がけてきた。終始一貫このことにぶれはない。そして、一見、温厚なお人柄に見える氏は、ヒリヒリするような、メッセージ性ある作品を発表し続けて来られた。その指向はこれからも続くのであろう。

大石悦子『百囀』追加記事

 小生のこのブログの8月6日版に大石悦子さんの『百囀」の紹介文をアップしたが、ご本人からお礼の書状を戴いた。中に、難語や古い季語のことが書かれてあり、大変勉強になった。大石さんが筆者(=栗林)を責めている訳ではもちろんないが、如何に浅学であったことかと反省した次第である。その事情を少し書こう。

 氏の作品に、〈079 与らむ離宮の大根配なら〉 があって、筆者はこう書いていた。

 いろいろな寺社で大根を炊いて参詣者に振舞う行事があるようだ。京都の鳴滝、三千院などがインターネットで出てくる。「離宮」が筆者には分からなかったが、八瀬離宮なのかと思ったりしている……。

 ところが、この鑑賞は大外れ! 〈大根配〉は、古い冬の季語で、農家の人々が、下肥をもらって作物が稔ったお礼に、家々に大根や菜っ葉を配るのだそうだ。そういう謂れを知っていれば、俳句に詠みたくなるはずである。古き良き時代の風景である。実際に大石さんはそのことを体験なさっていたようだ。ここでの離宮は修学院離宮であって、その畑には冬野菜がよく育っていたのだそうだ。

 造詣の深い方々には常識的であったのかも知れないが、勉強になりましたので、お礼のつもりでアップ致します。


 

 

高岡修句集『凍滝』

 高岡さんは詩人で詩集がすでに19冊。もちろん句集も多く、この『凍滝』は第八句集になろうか(2020年12月10日、ジャプラン発行)。氏はご承知の通り、現代俳句評論賞や協会賞を受けておられる方である。

高岡修句集.jpg

 高岡氏はあとがきで次のように書いておられる。

(俳句が)現代俳句を標榜する以上、俳句も「時代の本質を手づかみ」にしなければならない、そう思った。これまで以上に先鋭な方法意識をもって、私もまた現代を俳句で表現してみたい、そう思ったのである。

 今回のこの句集の特徴は、その表紙の白を基調とした静粛さと、一頁一句の試みであろう。特に一頁一句の点に、あとがきにある氏の熱い思いが込められているのであろう。一句一頁をつら抜くには、よほどしっかりした作品でないと、場が保たれないと言われている。リスクがある反面、読者にとっては、並んでいる次の句に目移りすることがないので、じっくりと深読みできるというメリットがある。それはつまり、一頁をその一句で支さえねばならないということであるから、相当に高質な作品でないといけない、ということでもある。読者をその一頁にじっと足止めさせるだけの力を持っていないといけないのである。
 この句集はそれに耐えていると思う。筆者(=栗林)自身も、このような句集にあこがれるのである。たしか、池田澄子さんに見せて戴いたのだが、三橋敏雄の『真神』が、実に豪華な一句一頁の句集だったと記憶している。


高岡修一頁一句.jpg


 自選句の提示がないので、早速、筆者の琴線に触れた句を抽き出してみよう。

015 ピアスなら蜃気楼社のあつらえで
020 春の雪死者のあうらの白さもて
027 北帰する鶴胸腔の火を煽り
044 枯れて死すこと赦されず水中花
046 空を摑み引きずり降ろす滝の水
048 戦争と金魚が濡れている真昼
055 夏空の記憶に付箋つけてゆく
058 立棺の都市化粧して芥子を吸う
061 灯ともせば金魚の孤独が音立てる
072 破れ鏡映せるものを全て裂き
089 使い捨てのうしろ姿が捨ててある
092 折り鶴が火の粉ちらして飛ぶ未明
095 手袋の闇に手の闇容れている
106 凍滝のなか月光の氷りたる

 こう並べてみると、この句集は平明な作品ばかりかと思うかもしれないが、そうではない。筆者の手に負えない、理解を超えた作品が目白押しである。筆者は過去に高岡さんの句集を三冊読ませて戴いて、その都度、ブログにアップしたことがある。こう書いてある。

『高岡修句集』(ふらんす堂、2014年12月発行)鑑賞
2015年1月13日、栗林浩のブログより
 早速読ませて戴いたが、正直言って筆者には難解句が多かった。自然に、分かるものだけを選んでしまう結果となった。しかし、気が付いたら60句以上を抽出していた。難解だと思っていたのに、この数は意外に多い。
 難解句のなかに分かりやすい句があると、それに心が寄せられるのだろう。「分かる効果」かも知れない。読んで行くうちに、高岡さんの俳句は一行の定型詩なのだと考え、筆者に沁み込んでいる狭義の俳句的鑑賞態度を緩めてみた。そうして2回読むと、筆者の抽出句が1回目よりも格段に増えたのであった。

高岡修句集『水の蝶』(2015年12月20日、ジャプラン刊行)十句鑑賞
2016年1月6日、栗林浩のブログより
 高岡さんの第六句集『水の蝶』を鑑賞する機会を得た。表紙の青い蝶がモワレ模様の光を帯びて美しい。
 作品は、詩的ひらめきに満ちており、読者に相当な鑑賞力を要求する。だから、全体を読み通して、筆者の能力に見合った句のみを選んだようだ。しかし、十句鑑賞のつもりが、それを越えた。

高岡修句集『剥製師』(2019年9月17日、深夜叢書刊行)
2019年9月26日、栗林浩のブログより
この句集には難解句が多く、筆者のレベルではその高み、深み、に及べないような句が目白押しである。その意味で、筆者は必ずしもこの句集の良い読み手ではなさそうである。とは言え、意味が分かる句と、分からないものの何かを感じさせてくれる句とが、結構多くあって………(以下略)。

 さて今回の句集は全部で100句である。この中から筆者の理解の及ぶ句で、かつ、共感を覚えた句は、先に掲げたとおり、14句であった。結構多いのでは、と思うのだが、やはり、かなりの数の句が筆者の理解の能力を超えていた。過去のブログにあるように、筆者の理解力はあれから一向に進んでいないことを物語っている。
 今回は、なぜか無季俳句に筆者の関心が向かったようだ。それらは、

072 破れ鏡映せるものを全て裂き
089 使い捨てのうしろ姿が捨ててある

のような句である。ここで考えると、高岡さんの有季と思われる句でも、その季語は伝統的で本意的な働きよりも物理的なモノやコトとしての働きがあるように思えた。

 またまた刺激を戴いた句集であった。