井上弘美句集『夜須礼』

 俳壇でご活躍の井上さんの第四句集(2021年4月26日、角川文化振興財団発行)。
 井上さんは、「汀」主宰。著作に『季語になった京都千年の歳事』などがあり、『読む力』で俳人協会評論賞を貰っておられる。
句集名『夜須礼』(やすらい)は、京都の今宮神社の祭礼であるそうだ。京都に詳しい方に相応しい句集名である。


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 自選15句は次の通り。

  野遊びの靴脱ぐかへらざるごとく
  荒縄をくぐる荒縄鉾組めり
  流氷原を行くたましひの青むまで
  蝮酒ぐらりと闇が傾ぎけり
  犬岩の耳滅びゆく冬銀河
  すこやかに大地濡れゆく杏の実
  ひるがへるとき金色の鰭涼し
  金星の神在月の高さかな
  蕪村忌の舟屋は雪をいただけり
  狐火を見にゆく足袋をあたらしく
  湖一壺冬満月のあかるさに
  幾重にも折山のあり懸想文
  空遠くなる熊啄木鳥(くまげら)のドラミング
  水瓶(すいびやう)に花鳥尽くせる霜夜かな
  楮踏むとは産土の水を踏む

 小生の気に入りの句は次の通り。(*)印は自選と重なった。

007 あをあをと海の暮れゆく雛の膳
007 野遊びの靴脱ぐかへらざるごとく(*)
008 鳥雲に入るレコードに虚子の声
010 まつくらな海に手を差す踊かな
014 踏青の水ひかり出すところまで
030 鞍置いて端午の馬のにほふなり
031 短夜の青こみあぐる憤怒仏
035 叡山を正客とせる水の秋
040 百年の杉伐つて星冴ゆるなり
043 門前に婆ひとり座す年の市
052 山籟に蹄涼しき一騎かな
059 膝の子が鈴(りん)打つ地蔵祭なる
063 大綿にふつと過ぎれる火のにほひ
067 まだ消えぬ焚火がひとつ夜の底
076 花させば弔ふごとし夏帽子
090 海猫に鳴かれて寒しオホーツク
095 金泥の眼もて蜻蛉生まれけり
102 秋袷鑽火飛ばしてくれにけり
105 たれかれの声の籠れる龍の玉
132 燭ひとつ足せばゆらぎぬ春の闇
135 螢の夜鼻緒につよく足を入れ
139 伏せておく母の手鏡虫の闇
178 解くほどに濡れ色となる粽かな
180 綿菅の絹のひかりをほぐしたる
184 室町に伯父をりしころ祭鱧

 007、007,008は、句集を繙いてすぐの三句。この調子で行くと全句を選んでしまいそうになるのを堪えて、次頁からはハードルを上げて選んでいった。

007 あをあをと海の暮れゆく雛の膳
007 野遊びの靴脱ぐかへらざるごとく(*)
008 鳥雲に入るレコードに虚子の声
 句集の第一句「あをあをと」は、実に雄大で端正な句。しかも「雛」というひとが出て来る季語が良かった。不思議にこの三句とも「ひと」が出て来る。
 冒頭二句目。「野遊びの」句は、「靴」を脱ぎ散らかして、草はらに飛び出していった子供たちの姿が見えるよう。「かへらざるごとく」が、読者をやや不安な気分にさせるが、そのせいで余韻が広がった。それとも、主人公は子供たちではなく、ご自身なのであろうか。そうすると、かなり重たい句。複数の読み方を許す句柄は、実は小生には好みの句であります。ただし、どちらに読んでも詩情が湧く場合に限りますが・・・。
 冒頭三句目。「虚子の声」は、私の場合、多分、港の見える丘公園にある「神奈川近代文学館」での催し物だったと思うが、虚子の肉声録音を聴いたことがあった。思い当ることがあるとつい嬉しくなって、戴いてしまう。

031 短夜の青こみあぐる憤怒仏
 自信はないが、吉野の金峯山寺蔵王堂の、あの青い憤怒像ではなかろうか。一度見たら、脳裏に焼き付いてしまう仏像である。

090 海猫に鳴かれて寒しオホーツク
 北海道出身の小生にはよく分かる。原風景ともいえる景です。

105 たれかれの声の籠れる龍の玉
「龍の玉」というと、小生は村越化石の〈生い立ちは誰も健やか龍の玉〉を思いだす。この句にもどこか通底するものがありそう。

135 螢の夜鼻緒につよく足を入れ
「つよく足を入れ」に作者の意思を感じた。何かを決意したかの如く・・・。当然、和服姿。艶やかな季語「螢の夜」が微妙な味を与えてくれている。

 久しぶりに、感銘を戴いた句集でした。

牧野桂一句集『青土筆』

 作者の牧野さんから戴いた『青土筆』は、第四句集のようだ。戴く句集は必ず一読し、御礼の葉書を書くように努力している。今回もそう思って読み始めたら、結構、面白くて、小生のブログに取り上げたいと思った。子供の教育関係のお仕事をされておられた方のようで、童話やエッセイなども多く上梓されている。2021年6月20日、ジャプラン発行。


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 小生が戴いた句は次の通り、かなりの数となった。

006 七草や人のかほりの赤子抱く
007 冴返る子の背に尖る塾の椅子
007 古来より斧を禁じて芽ぐむ山
008 椿散る被爆マリアの微笑みに
008 子のリボン程よく解け鶴帰る
009 おぼろ夜の女に堅き壜の蓋
009 水ぬるみをり少年のふくらはぎ
011 紫雲英田の窪みの一つ人型に
012 水子塚落ちては光だす蛍
015 母と子とローズマリーに触れゆけり
017 遠雷や子の胸にある家の鍵
018 鶏を吊る軒の高さに流れ星
020 てのひらに木の実を二つ不登校
025 風待ちの島へ尾を垂れ冬銀河
025 鉄を切る仮面の火花十二月
029 二日はや茶碗を割つて塩振つて
029 子が摘みしものを加へて薺粥
031 なぞかけの子のなぞ解けぬ春の雪
032 燕来て山が女体となる夕べ
032 蕗味噌や竹箸のまだみどりなる
034 菜の花や深海の魚裏返る
034 捨乳の小塚廃るる海女の浜
034 春の灯に口を開けたる指狐
035 夕刊と着く花冷えの連絡船
035 少年の手話に絡まる花の雨
037 山梔子の花が駅です縄電車
038 合歓咲いて失語の街の水の音
045 檸檬スライスリストカットの傷秘めて
047 車椅子うしろ蹴りして秋の蝶
056 去年今年ずれて鳴き合ふ鳩時計
060 竹橋のみどり芳し仏生会
062 負鶏の籠に帰りて瞑れり
062 蒲公英の絮の全円傷つかず
063 どの家も漏らす水音桃の花
064 濃く墨す子の名は航大武具飾る
068 炎天を帰り来し子のぼんのくぼ
069 花野来て風の窪みに繋ぐ牛
071 振ればまた土鈴に秋の深くなり
073 望の夜の少女小さく靴揃へ
073 ひよんの笛吹く少年の神がかる
074 鰭酒にぱつと火の点く別れかな
074 夕刊の太字に転がり来る蜜柑
081 勾玉の嬰を宿して春隣
084 燕来るベッドサイドの授業にも

 一読して、いや最初の数頁を読んで、すぐに、なかなか上手い方だと思った。納得の作品が次々と現れた。それがブログにアップしたいと思った理由である。
 この句集の特長は、子供を題材にした作品が多いことである。そのせいか、平明にすぎるほど平明である。それは悪いことではない。一物句が多いのも特徴であろうか。
 全くの個人的興味だが、私としては、この作家のもっと謎を含んだ暗喩の効いた句も読みたいものだと、反動的に思ったほどである。それほど素直な句が並んでいた。その意味で、次の一句

038 合歓咲いて失語の街の水の音

は、ちょっとした謎があって、文学性もあって、私の印象に残った。
 ありがとう御座いました。

高野公一『芭蕉の天地』(最終回)

 該著の最終章を抄録致します。4回にわたるご愛読を感謝いたします。

第九章 天地とともにある俳諧―不易流行論の原像
 最終章は芭蕉の言「不易流行」について充てられている。この言葉の真意を芭蕉は丁寧には説明していないらしい。「不易流行」に関する一次資料が二つしかなく、いずれも論理的な説明はない。去来が残した間接的一次資料や、弟子たちが芭蕉から聞いたことを書き残したものなどを隈なく調べると、出羽三山で芭蕉を世話した図司呂丸の

  花を見る、鳥を聴く、たとへ一句にむすびかね候とても、その心づかひ、その心ち、これまた天地流行の俳諧にて、おもひ邪なき物也。……変化を以てこの道の花と御心得なるべく候。ここに天地固有の俳諧あり……

があった。ここでは「天地流行の俳諧」「天地固有の俳諧」として「天地」の言葉が出て来る(第三章にも「天地」という言葉が出てきた)。
 芭蕉没後、去来が其角に宛てた書状では、「千歳不易」「一時流行」なる言葉があり、「天地」の替りに「風雅のまこと」という言葉が使われている。
 弟子の土芳は『三冊子』に

   師の風雅に、万代不易あり。一時の変化あり。この二つに究り、その本一つなり。その一つといふは風雅の誠なり。

とあり、「風雅の誠」は「誠の俳諧」のことであるとする。
 
 「不易流行」という言葉は、芭蕉が弟子に向かって実作上の態度を言って聞かせたのだろうが、論理的でないし、弟子たちもそれを後世に論理的に伝えることが難しかったようだ。その理由を高野は、「芭蕉は理論家であるよりは実感派であり、哲学者であるよりは詩人であった」という。この「不易流行」なる言葉は、『ほそ道』の旅(小生は特に、「息絶身こごえて」の実経験から「天地」との接触意識を強くした出羽路の旅を思うのだが……)を踏破した者の実感から得た奥義のようなものであり、弟子たちはその旅を経験していないが故に、そのままの言葉を伝えたものの、肌で真意に近づいていなかったのかも知れない。
 芭蕉の「不易流行」は世界観であり、俳諧観であった。その一体性の認識であった。新しくかつ時代を越えてゆく俳諧こそ、芭蕉が追い求めてきたものであった。その秘義を悟り得たのは旅の賜物だった。それは冷静な「論」よりは元来、どこか喜びの「信仰告白」に似ていたはずだ……と高野は結論づけている。
  
 該著を一読し、渾身の高著であることを深く認識し、小生もいっぱしの芭蕉通になったような気がした。有難う御座いました。

高野公一『芭蕉の天地』(その3)

 今回は第八章のみを掲げる。

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第八章 歌仙の時―素顔の旅の俳諧師
 芭蕉は乞食行脚の僧身のいでたちで旅立ち、諸国を能の脇僧のように巡る。その作品『ほそ道』は、旅そのものの本質がそうであるように、まるで、行きて戻らぬ歌仙の展開の趣の内に進む。この章では、旅の俳諧師の姿と作品が、道中で催された歌仙を中心に、どのように『ほそ道』に書き込まれたか、あるいは、書かれなかったかを見る。
 最初の歌仙は黒羽・余瀬で巻かれた。十三日におよぶ長逗留で〈秣(まぐさ)おふ人を枝折の夏野哉〉などを発句として詠んだが、『ほそ道』には載っていない。
 次の歌仙は須賀川の等窮の元で、「白河の関いかにこえつるや」と訊かれ、〈風流の初めやおくの田植うた〉と陸奥への挨拶を発句として巻いた。白河や壺の碑での激情的な雰囲気ではなく、ここでは、真に雅味あふれる、なごやかな雰囲気であったようだ。 
 尾花沢では江戸の頃からの知己である紅花問屋の鈴木清風のもと、十日間くつろいでいる。〈涼しさを我やどにしてねまる也〉を発句に巻いている。陸奥の歌枕や義経ゆかりの史跡をめぐる旅人の心模様とは一味違った出羽路の始まりであった。
 次は大石田・新庄である。清風のその勧めで立石寺を訪れ、大石田の船問屋高野平右衛門宅で三泊、到着の翌日早速四吟歌仙。ここで〈五月雨を集て涼し最上川〉が出て来る。
 さらに新庄では渋谷甚兵衛(俳号は風流)宅に泊まり、歌仙興行。
        
     *****

 ここで余談だが、思いだしたことがある。小生が蛇笏賞作家渋谷道(私家本『俳人渋谷道―その作品と人』、書肆アルス)を書いたとき、芭蕉が新庄の紅花問屋である渋谷家に泊まったことに触れたことを思いだした。関係部分を引用しよう。 

(渋谷道は)先祖の盛信、甚兵衛兄弟が、松尾芭蕉主従を招いた元禄二年六月のことを、証明する資料を持たぬがゆえに、世間へ向けて口にはしなかった。明治元年、澁谷家が戊辰戦争で焼亡したとき、芭蕉の残した真筆も失われた。家を捨て故郷を出た祖父盛孝が失意を抱き続けながら、一目新庄を見たかった心根がいま思いやられる、という。
 昭和十七年、道十六歳。昭和十三年に発見されていた『曾良随行日記』がこの年の八月、発見者山本六丁子によって出版された。後日知ったのだが、新庄の項に澁谷家の盛信亭、風流亭の記述があった。この『曾良旅日記』の岩波書店版には、元禄二年六月一日のところに、「二リ八丁新庄、風流ニ宿ス」とある。この風流は甚兵衛の俳号であり、澁谷九兵衛盛信の弟で、二人とも紅花商人であった。芭蕉と曾良はこの風流亭に泊まったのである。そして翌日は、
 二日 昼過ヨリ九郎兵衛ヘ被招。彼是、歌仙一巻有。盛信。息、塘夕、澁谷仁兵衛、柳風共。孤松、加藤四良兵衛。如流、今藤彦兵衛。木端、小村善衛門。風流=澁谷甚兵へ。三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元(本)合海。次郎兵ヘ方ヘ甚兵ヘ方より状添ル。
とある。脚注に、「九郎兵衛は、澁谷氏。俳号盛信。新庄第一の富豪で風流の本家」とある。連句の会が催され、出席者に澁谷家の面々の名が出ている。三百年後、この盛信が(渋谷)道に繋がっていることが判明したのである。

     *****

 場面は羽黒山に進む。ここでの歌仙は正式な俳諧興行であり、江戸の高名な俳諧師とその共を迎えてのものであり、尾花沢や新庄での俳諧の座とは趣の違ったものであった。一山を代表する別当代会覚阿闍梨ほか連衆が集まっての三日に渉る堂々とした座であった。
  有難や雪をかほらす風の音
  鶴岡では旧知の庄内藩士宅で〈めずらしや山を出で羽の初茄子〉、次の酒田では、豪商寺島宅で〈涼しさや海に入たる最上川〉。そしてかの象潟を訪ね、また酒田に戻る。〈温海山吹浦かけて夕涼〉。
 塩竃、松島、平泉では俳諧興行がなかったのだろうが、出羽路では俳諧師の本領を取り戻したかのようだ。
直江津・高田・金沢・大垣と歌仙は続くが、少し長くなりすぎたので、小生の記憶に残る名吟だけを挙げさせて戴こう。
  あかあかと日は難面も秋の風
  塚も動け我泣声は秋の風
  あなむざんやな冑の下のきりぎりす
 
 かくして、芭蕉は、時間というものが行きて帰らぬ連句の運びと同じであること、すなわち、旅も世界も時間も、すでにそれ自身が連句であることを悟り、生涯をかけて磨き上げた連句的感性をもって、旅の事実と心で見た真実が織り成す文学空間を作り上げていったのである、と高野は纏める。

 参考までに拙著『渋谷道ーその作品と人』の写真を載せさせて戴きます。最終章は次回に。

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松尾憲勝句集『無伴奏』

 松尾さんの第三句集である。氏は「郭公」(井上康明主宰)および「嵯峨野」(才野洋主宰)に所属しており、第一、第二句集は、恩曾川太郎の名で出されている。今回は、実名での句集である(令和三年六月、喜怒哀楽書房発行)。


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 自選の十句は次の通り。

  ホルン吹く靑嶺に息のとどくほど
  混沌と湖に日のある懐手
  まんさくの花の盛りの微笑佛
  背伸びして盆提灯を吊しけり
  時雨傘振つて観音堂に入る
  労らひの言葉みじかく案山子抜く
  裸木の影はユトリロひた歩く
  東京の空が真つ青大試験
  山歩く十一月の日をまとひ
  青き踏む実朝の海見ゆるまで

 小生が抽出した句は次の通り。(*)印は自選と重なった。

012 ゆく春や透かして青きインク瓶
013 ホルン吹く靑嶺に息のとどくほど(*)
015 直会や杉のかをりの今年酒
016 返り花きのふをとほき日とおもふ
026 何語るべく炎天を來たりけり
039 花こぶし月光にはや傷みたる
040 熊ん蜂耳鳴りの耳とほく過ぐ
050 詩歌にも旬といふもの鵙の贄
054 ほとけ見て余呉の湖見てしぐれかな
057 桃の花甲斐駒に雪たつぷりと
059 代搔きの月を残して帰りけり
066 望郷の旅にしあれば昼の虫
072 東京に出るも旅めく霜日和
073 裸木の影はユトリロひた歩く(*)
082 鶯や結ひしばかりの四つ目垣
090 労らひの言葉みじかく案山子抜く(*)
115 冬瓜の煮くづれのなき子規忌かな
118 存らふは焦りにも似て鉦叩
124 編みかけのセーターと云ふ遺品かな
125 息白く來てとりとめのなき話
133 青き踏むときに仔犬を抱へつつ
163 厨子の扉の開けられ梅は早三分

 第二句集『鳥の歌』を発行されたとき、小生はそれをブログに取り上げていた。こう書いている(「栗林のブログ 恩曾川太郎」で検索可能です)。

「全体を通して、自然のモノやコトをたしかな気付きを以って丁寧に写生・描写している。平明であるが、平凡ではない。年季の入った力量を感じさせる句集であった。もう少し言えば、老病生死の境涯句がなく、社会の不条理や戦争・テロを詠む句もない。艶物・エロス・滑稽をモチーフにした句もない。この句集の主体は、日常や旅から得た感受を、これみよがしにでなく、淡々と、しかし適度な感動を籠めて詠んでいる作品たちである。筆者(=栗林)のまわりに、このような実力を持った俳句愛好家を発見したことはうれしいことである」

 今回の『無伴奏』に対しても全く同じ印象を持った。敢えて言えば、完成度は高まったように思う。どれを読んでも、研きに研いた、隙のない句ばかりである。だからこそ、実名句集とされたのであろうか。読んでいて、たまには羽目を外しそうになる句をも見たくなるのだが、それは、氏にとっては、望んでいないことなのであろう。

 とにかく、納得のゆく、すっきりした句集であった。



高野公一『芭蕉の天地』(その2)

 『芭蕉の天地』の第三章から第七章までを抄録します。


第三章 芭蕉の「天地」―雲の峰は幾つ崩れたか
 平泉の次は一変して風狂の気分の道中記となる。険しい峠越えから月山登拝で「息絶身こごえて」の経験から自然との接触意識を強くする。「天地」という言葉が出羽三山の旅から何度も使われ始める。日や月も多く詠まれる。歌枕よりも厳しい天地自然の実相を見つめる視線が鮮明な出羽路であった、と高野はいう(実は、この「天地」という言葉が大きな意味を持っていることが、最終章で明確になってくる。思えば、この著作の題名は『芭蕉の天地』であるではないか)。
  閑さや岩にしみ入る蟬の声
  五月雨やあつめて早し最上川
  涼しさやほの三か月の羽黒山
  雲の峰幾つ崩れて月の山
  あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ
  暑き日を海に入れたり最上川
 白河から平泉までは「歌枕巡礼」であり、尿前の関に始まり、出羽路とこの後の越後路を「太陽と月」の旅だと長谷川櫂は言っているらしい。

第四章 天空の越後路―芭蕉は荒海をみたか
 この章のポイントは、越後路での俳文部分が完全に省略され、次の二句にこの部分の旅のすべてをゆだねていることである。何故であろうか? 高野は「芭蕉は思い切った全的な消去・省略によって大きな〈無〉、あるいは全き〈闇〉をそこに生み出した」のだとする。芭蕉がこの無言の闇の中に置いた二句とは、
  文月や六日も常の夜には似ず
  荒海や佐渡によこたふ天河
であり、高野はこの二句を深く解説し、味わっている。

第五章 萩と月―踵の痛み終えて
 先の二句は歌仙の運びの妙に似ていて、次の物語への序章でもあるようだ。つまり、連句には必須の恋の場面への展開である。
  一家に遊女もねたり萩と月
ここで、「市振の遊女」が登場する。しかし、曾良の日記には一切出てこない。フィクションである。旅を終えた後、『ほそ道』に色を添えるために、芭蕉が、後で詠んで入集したものである、と知った。
 ここで遊女と別れる筋書きだが、やがてそれは山中温泉での曾良との分れにもつながる。体調が悪かった曾良は、先に大垣へ向かい、芭蕉は、等栽と敦賀に向かい、そこで路通と一緒になる。このあたりでは、月や萩の風流に凝り、ふたたび西行の歌枕探訪の意味合いが強くなる。

第六章 「書留」から『ほそ道』へ―俳諧道中記の発句(1)
 先にも述べたが、この章は『ほそ道』の旅程中に詠まれた芭蕉と曾良の全句と、帰着後に詠んで加えた全句を網羅している。つまり、詠まれたのだが『ほそ道』に採用しなかった句も、改変されたものをも、丁寧に論じているのである(巻末の資料1,2に整理されている)。  
 このために高野は『曾良日記』「俳諧書留」『猿蓑』などを丁寧に点検することは勿論、旅中に残された短冊、画讃、書簡などに関する研究成果にも目配せを怠らない。
 小生が感心したのは、掲載にあたって、推敲された句の推敲のなされ方であった。二例だけに絞って掲げる。
  山寺や石にしみつく蝉の声  →  閑さや岩にしみ入る蟬の声
  五月雨を集て涼し最上川   →  五月雨やあつめて早し最上川

第七章 行く道・帰る道―俳諧道中の発句(2)
 『ほそ道』は往路では、旅立、日光、那須、遊行柳、佐藤庄司の旧跡、帰路では、市振、小松、山中、敦賀、大垣の、それぞれの場面に置かれた発句があり、それらを鑑賞するのだが、記事や俳句については、往路・帰路では対称性がある。そこには芭蕉の美意識や価値観があらわれている、としてそこにあるそれぞれのテーマを解説している。
 そのテーマは次のように分類される。ここでは、テーマに応じた発句を一つずつ掲げる。
① 西行の面影を追う文学空間   田一枚植て立去る柳かな
② 神社仏閣と日と月       あらたうと青葉若葉の日の光
③ 恋のメルヘンー仄かな匂い   一家に遊女も寝たり萩と月
④ 兵―鎮魂の俳諧        夏草や兵どもが夢の跡
⑤ 同行二人―曾良の登場と退場  行々(ゆきゆき)てたふれ伏すとも萩の原(曾良)
⑥ 春秋―時の旅人(旅立)    行春や鳥啼魚の目は泪 
         (旅終)    蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

 第八章と第九章(最終章)は近くアップ致します。

榎並恵那―俳句と色鉛筆画『モノクロームの空』

 俳句結社「山河」(山本敏倖代表・松井国央名誉代表)の幹部同人であられる榎並さんが『モノクロームの空』を上梓された。各頁に自作の色鉛筆画と俳句を掲載している。全頁色刷りである。俳歴は結構永いが、色鉛筆画は2020年から始めたというから、画歴は短い。なのにその作品数は驚くべき数である。テレビのプレバトの色鉛筆画を観て刺激され、それから始めたというから、これも驚きである。


榎並恵那絵と句.jpg


 中から小生の気に入りの句を挙げさせて戴きます。

03 三島忌やこの先左折できませぬ
07 読み初めや父の書棚の三段目
10 戦後派と言われ続けて夾竹桃
16 年用意聞こえてこない母の音
33 如月の行間埋める申告書
39 あじさいや父の句集に潜む母
45 昔日の女(ひと)の訃報や花ミモザ
 (これらの句にどんな絵が添えられているか、ご興味を持たれる向きは、このブログにご連絡戴ければ仲介させて戴きます。)
 掲載の色鉛筆画には、もちろん気に入ったものが多かったが、一点だけ載せておこう。


恵那恵那挿画 (2).jpg



 これに添えられた句は
15 老木の生を確かめ蔦紅葉
であった。これは全句について言えることであるが、挿画との、近からず遠からずの距離感に好感を持った。

 末尾に、富嶽三十六景の模写が付されている。驚きの熱意である。


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高野公一著『芭蕉の天地』―「おくのほそ道」のその奥(その1)

 該著は、「おくのほそ道」に係わる評論を書いて、現代俳句評論賞やドナルド・キーン賞優秀賞に輝いた高野公一さんの、芭蕉―おくの細道論、の集大成である(2021年6月10日、朔出版発行)。 

 小生は、時々お邪魔する「山河」(山本敏倖代表)の結社句会で高野さんと面識を持ったのであるが、氏は大企業である日本精工(株)の米州総支配人・代表取締役専務という最前線のビジネスマンの経歴を持ちながら、多くの芭蕉研究者をしのぐ高著を、今回世に問うたのである。
 「おくの細道」は多くの人々が読んだことと思われるが、小生も芭蕉研究家の村松友次さんを訪ねたり、大輪靖宏先生の社会人向けの連続講座を聴講したり、関連図書を読み漁り、「隠者説」や「真筆論争」や「曾良の生涯」について書いたものだった。その都度、芭蕉や「おくのほそ道」の謎への関心が募っており、当然、高野さんの今回のこの論考に期待するところが大きかった。この書は全九章からなっているが、一章ずつ読んで行って、小生が「目から鱗」と感動した部分を抄録してみよう。小生の個人的興味に関連した部分に限定されるが、ご寛恕戴きたい。かなりの長さの評論なので、3回ほどに分けて、掲載いたします。今回はその1回目です。



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第一章 頭陀袋の一冊
 この章で小生が認識を新たにした点は、そもそも『おくのほそ道』(以下『ほそ道』と略記)は、芭蕉が公開を前提に書いたものではないということであった。陸奥の旅を終えて四年半後に完成したこの『ほそ道』(素龍版)を、芭蕉は、故郷伊賀への西下の旅に出るとき、兄半左衛門への土産として頭陀袋に入れて持ち歩いたのが、この一冊であった。
 この『ほそ道』を補完する一書が発見されたのが昭和18年の『曾良日記』であり、これが『ほそ道』の読み方を大きく変えた。つまり、『ほそ道』は紀行文ではなく、虚構を交えた文学書であるとの見方が確立された。その構成は、四部に分かれるという長谷川櫂の見方もあるが、歌枕を訪ねる前半(松島あるいは平泉あたり迄)と自然や太古の時間に触れて芭蕉自身の内面を書き始めた出羽路以降の二分説もあるようだ。
 芭蕉が公開を前提とせずに『ほそ道』を書いた目的は、いろいろな研究者や作家によって忖度されているが、趣味で書いたという田中善信の説も、若き頃の芭蕉が使えた藤堂家の若殿主計良忠へのオマージュだという杉本苑子の説にも、小生として満足していない。それにしても、なぜ芭蕉は兄にこの『ほそ道』を謹呈したのだろうか。それを兄はなぜやすやすと去来に渡したのであろうか。まだまだ知りたいことがある。

第二章 いざ、歌枕―田植うた・光堂・ねぶの花
 この章は『ほそ道』のはじめの目的である歌枕を訪ねる部分を詳述している。西行や能因の名歌を訪ねるのである。『ほそ道』以前に編まれた『笈の小文』には西行の名歌をなぞる芭蕉の発句が並んでいる。随分の思い入れである。
 平安貴族は陸奥の歌枕に憧れた。とはいえ、実際に訪れることが出来ないので、京の都に陸奥を擬した大庭園を造ったりしたほどだったと、小生は認識している。
 歌枕はまず白河の関で本格的に始まる。しかし芭蕉は一句も載せていない。曾良の書留には能因を意識した〈早苗にも我色黒き日数かな 芭蕉〉があるのに、『ほそ道』には入れていないのである。このように、芭蕉は、大事な作品を抜いていることが、この後にもあるようで、それは、高野の読みでは、そのあとの場面(たとえば須賀川)への高揚感を膨らますため、敢えて入れていないのだという。須賀川では次の句を入れている。
  風流の初やおくの田植うた
そしてまた松島で沈黙し、平泉至って次の二句を遺した。
  夏草や兵どもが夢の跡
  五月雨の降りのこしてや光堂
「五月雨」の句を芭蕉は陸奥の旅の結論とした、と高野は書く。このあと出羽路という異質空間の旅があるが、その次はまた歌枕の象潟である。ここで
  象潟や雨に西施がねぶの花
を遺す。「象潟は松島・平泉に続く陸奥の歌枕行脚の終着点・総括店であった」と書く。こうしてここでは、旅人の風狂・自己戯画の趣は消え、むしろ新たな歌枕の新しい酒に陶然とする感がある。ドン・キホーテのように陸奥の歌枕に挑むことから始まった旅は、この止揚された世界で和解が成立したようで、その後の歌枕の地での記述は、むしろ旅人の心の平安を感じさせる、という。歌枕訪問という目的は、この後ずっと日が経って、敦賀などでまた頭をもたげたようではあるが、前半とは趣が違っているのであろう。
 ともかくも、西行への重圧と闘いながら、越後路へ入る前に、次の三句を得たことは、和歌の歌枕から俳諧の歌枕への変位といえる。
  風流の初やおくの田植うた
  五月雨の降りのこしてや光堂
  象潟や雨に西施がねぶの花


 第三章以降は次回にアップするが、高野さんの資料調査の綿密さには脱帽である。「おくのほそ道」の全行程の期間中に詠まれ、該著に載せられている発句以外に、落されたもの、改変されたもの、該著を意図的に構成するために旅の後で詠んで追加したもの等々、すべてにわたって調査し、それに基づいて論考している(纒は巻末の資料1,2)。そのためには、周辺の資料を丹念に漁らねばならない。「曾良日記」「俳諧書留」「真筆懐紙」「短冊」「画賛」「書簡」「撰集」などである。もちろん、蕉門以外の研究者が書いた評文、江戸時代から現代にいたる膨大な資料を網羅するその労の大きさを思うと、まさに脱帽なのである。

金子 敦句集『シーグラス』

 金子さんは盛岡正作主宰「出航」の会員で、すでに五冊の句集を出されている。今回の『シーグラス』の題名は、「ガラス片が波に削られて丸まり、すりガラスのような風合いを持つにいたったもの」から名付けられたらしい。栞に仲寒蝉(「牧」代表)さんが、そう書いている。2021年4月21日、ふらんす堂発行。


金子敦句集『シーグラス』.jpg


 自選句は次の十句。

  初空へ龍のかたちの波しぶき
  如月や一番星に薄荷の香
  白猫のまばたきのごと梅ひらく
  抱き上げて子猫こんなに軽いとは
  紙皿の縁のさざなみ山桜
  赤ん坊の髪のぽよぽよ桜餅
  付箋貼り本の膨らむ良夜かな
  寒月とチェロを背負つて来る男
  セーターの胸にトナカイ行進す
  ホットワイン『Moon River』を聴きながら

 小生の抽いた句は次の通り。一読して、この句集は、平明で、明るく、作者の日常の暖かさを感じさせる作品ばかりである。境涯も社会性も隠されている。だから、安心して読んでいける。楽しい句が沢山ある。どれもが解説を必要とせず、「そうだそうだ」の納得の作品集である。だから、小生の抽出した作品にも、敢えて鑑賞文を付さなくても良さそうである。

008 サ行まだ曖昧な子の御慶かな
010 抱き上げて子猫こんなに軽いとは(*)
021 聖火のごとソフトクリーム掲げ来る
023 ゆく夏の光閉ぢ込めシーグラス
025 風呂敷の結び目かたき西瓜かな
034 チョキのまだ上手く出来ぬ子冬木の芽
047 悪友のやうに恋猫やつて来る
053 朧夜をワイングラスに満たしけり
058 楽隊のひとり草笛吹きはじむ
060 入口の砂地凹んで海の家
061 誰にでも尾を振る犬や水遊び
063 ノックして応答の無き西瓜かな
076 正式なルールは知らず雪合戦
077 馬小屋の藁は本物聖夜劇
083 ももいろのマシュマロ炙り牡丹雪
096 バトンパスのやうにバナナを渡しけり
108 黄落やパン屋に焼きたて時刻表
135 アンデスの塩は朱鷺色雲の峰
136 日本語に色の名多し夏料理
139 缶切の要る缶詰や終戦日
140 おくるみの中の赤子のやうに桃
141 好きといふ手話を教はり酔芙蓉
145 ひざまづき挿してもらひぬ赤い羽根
171 物置はタイムトンネル捕虫網
176 朝霧の中よりルノワールの少女
187 オムライスの旗は靡かず七五三
191 狐火やルソーの森へ続く道

 総じて心温まる好句集だと思いました。有難う御座いました。

能村研三句集『神鵜』

「沖」主宰の能村研三さんの第八句集である(東京四季出版、2021年5月24日発行)。平成25年から30年までの三五八句を納めている。

能村研三第八句集.jpg



 自選12句は次の通り。

  筆の穂を噛めば筆の香二月来る
  眼に力入れて見てゐる稲の花
  一島を被り余して鰯雲
  濤声を呼ぶ大鷹の渡りかな
  回想の起点としたり赤とんぼ
  駅の名を見る狩人が降りてより
  桃活けて壺中の闇を濃くしたり
  暁闇の冷えを纏ひて神鵜翔つ
  偏照りのあとの偏降り青胡桃
  疾走の一艇のあと秋立てり
  鶏冠のまだ揺れてゐる野分あと
  根ざらしの崖に秋寂ぶ音を聴く

 この句集を読んで得た感銘は、語彙の豊富さである。理系育ちで浅学な小生にとって、初めて遭遇する「言葉」の魅力が多かった。恥をさらすようだが、冒頭の句〈淑気満つ梅鼠てふ古代色〉の「梅鼠」は「古代色」とあるから見当はつくものの、パソコンで調べて初めてその微妙な色合いを知った。利休鼠や縹色を初めて知ったときもそうだったが、美しい色に対して、大和言葉ならではの柔らかい言葉があることは嬉しいことである。JIS規格で色ナンバーを言うのとでは大きな違いである。
 小生にとっての新しい言葉は、恥の上塗りだが、「梅鼠」をはじめ「閘室」「葷酒」「暮古月」「貝の口結び」「すべり言葉」「塵外」「華乗り」「眉丈」「眉宇」「小半機嫌」「足半」「真間」「八月大名」「群狼の離別」の15語であった。これらはパソコンの世話になった。お陰様で語彙が増え、財産が増えたような気がした。

 小生の好きな句は70句ほどであったが、中から10数句に絞って掲げ、短い鑑賞を書かせて戴き、残りの60句ほどを参考までに末尾に掲げさせて戴きます。(*)印は能村さんの自選句と重なったもの。

 まず研三さんの父登四郎さんに係わる句を挙げてみる。
053 草田男の沖・登四郎の沖真炎天
124 実むらさき正座が常の父なりし
154 銜へ煙草の父の写真や竹の春
155 秋の灯や考(ちち)が慣ひの観世縒
 なかでも、053は草田男の〈玫瑰や今も沖には未来あり〉と登四郎の〈火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ〉を思い出させてくれる。いずれも人口に膾炙している代表句である。小生は登四郎の謦咳に接したことはないが、多くの写真から、大柄な氏の面影を思い浮かべている。それにしても「沖」は多くの良き弟子たちを育てたものである。

026 猪独活の峠照り降り繰り返す
 小生の故郷北海道の原野にも夏には「猪独活」が咲く。高いのではニメートルほどにもなり、レース状の白い花が目立つ。その場所が峠で、日照り雨が降っている。緑の原野にやや丈高く「猪独活」が咲いているのだ。印象的な風景であり、大景である。

028 手を回し内鍵開ける盆休み
 ほんのちょっとした動作。それが一句となる。「盆休み」で家人は留守なのかもしれない。裏木戸に回って枝折戸の内鍵に手を回すのであろう。これが俳句だという見本である。

042 遠足の列は余さず森に入る
 同じ様なモチーフの句に〈遠足バスいつまでも子の出できたる 小澤實〉や〈遠足の列大丸の中とおる 田川飛旅子〉があるが、この句はバスやデパートではなく、もっと「遠足」に即した「森」を正面から詠っている。その点好感が持てる。

058 秋気澄む岡部旅籠の撥ね上げ戸
 小生もこの「岡部の旅籠」を訪れたことがある。「柏屋」といったと思う。村越化石について書くとき、彼の故郷藤枝市の岡部を訪ねたときだった。近くに〈十団子も小粒になりぬ秋の風 許六〉や〈梅若菜丸子の宿のとろろ汁 芭蕉〉などで有名な宇津ノ谷峠や丸子宿がある。そしてもちろん化石さんの〈望郷の目覚む八十八夜かな〉の句碑もある。茶どころでもある。
「共時性」とでもいうのであろうか、同じ場面を想起して懐かしくなる。これも俳句がもたらしてくれる恩恵であろう。

071 振り代のある花種の袋かな
「種袋」をさっと振ってみる。ささやかな音がして、花咲くときや稔りのときを想像させてくれる。季語の力を授かった句。

090 濤声を呼ぶ大鷹の渡りかな(*)
 雄大な景。小生はまだ大鷹の渡りを見たことがないので「共時性」は理由にならないが、俳人たちが「鷹の渡り」や「鷹柱」を楽しみに見に行くことがあるようだ。小生は、杜国を訪ねて芭蕉が詠んだ〈鷹ひとつ見つけてうれし伊良湖崎〉の嬉しさを思っている。

128 暁闇の冷えを纏ひて神鵜翔つ(*)
129 鵜に勧進眉丈の夜気の冴ゆるかな
 能登の羽咋市にある氣多大社の夜の神事。鵜が吉凶を占うのだそうだ。「眉丈」(びじょう)は土地の山の名前らしい。何となく奥ゆかしい響きである。行ったことはないが、想像している。この句集の題となった句群。

 このほか小生の気に入りの句を抽出しました。

012 引き際の美学を嫌ひ目刺喰ふ
020 麦秋にまぎるるまでを見送りぬ
023 西日中時間貧乏楽しめり
029 下戸されど送り火前の送り酒
040 かさばりし帽子の箱や桜冷
043 片陰の小さきを縫ひ根津谷中
044 端透けしゐなか銀座の薄暑かな
050 三日なほ雨に矜持の古代蓮
054 貝の口結ひ半纏の荒神輿
064 固結びこつこつ解く冬うらら
065 年木積む風呂を貰ふといふ昔
070 人日やボトルキープの手書き文字
072 レーザーの指し棒が解く涅槃図会
072 逆波の白むを読みて魞を挿す
075 私を包んでもらふ石鹸玉
076 雪吊の無用の役を解かれたり
080 はや傾ぎ雨後春筍の勢ひあり
081 春光や玻璃八枠に子規宇宙
086 打水の上懇ろに歩くなり
089 日の粒を抱きしままに藻の咲けり
098 駅の名を見る狩人が降りてより(*)
104 桃活けて壺中の闇を濃くしたり(*)
109 華乗りに命あづけて御柱祭
110 卯波晴蛸壺干しの口揃へ
113 若竹の撓ふに任せいすみ線
117 歩を止めて動く歩道や薄暑なほ
118 全身ののめり極めて箱眼鏡
119 回遊にさからふ魚涼しかり
123 豆柿の手桶に灯る躙り口
124 掛稲の留め干しにあるささげかな
127 葉の裏に銀を湛へて朴落葉
134 春淡し投網一円光りなす
135 今日雨水気づきてよりの二度寝かな
141 春の航孔雀開きの水脈を曳く
142 蛍光灯渋り点きして穀雨なる
144 偏照りのあとの偏降り青胡桃(*)
147 浮人形真正直は寂しかり
148 毒見役そのまま嵌る蝮酒
148 箱庭をガリバーまたぎしてをりぬ
153 そよがずに匂はずにゐる曼殊沙華
157 小江戸にて小半機嫌秋惜しむ
159 窯守の眼鎮むる遠枯野
160 夕時雨足半で来る鵜匠かな
161 あかざ杖根揃へ賜ふ美濃しぐれ
171 朧夜の道違へれば旅に似て
172 屋根替の菅のひかりを横抱きに
179 髪に手をやりて茅の輪をくぐりけり
180 魚市場滑走しくる角氷
181 甚平や生活はなべて目分量
186 群狼の離別の地なり萩揺れて
190 鮭打棒粗末がゆゑのしたたかさ
191 鬼柚子を採つて貰ひし遍路道
193 想像と違ふ人来るしぐれ来る

 ほとんどすべてが端正な写生句であるが、中で
075 私を包んでもらふ石鹸玉
の句は、「私」が前面に出ている点で、趣の異なった句柄であることに気が付いた。
 小生は、句集に収容する句を選ぶとき、選りによって、あたかも酒米を削りに削って大吟醸酒を造る気持ちで数を絞るのだが、考えて見れば極限まで純度を上げた「純水」は、飲んで旨くない。微量のミネラルがある方が美味しい。句集もそうなのかと思った。

 有難う御座いました。

「墨」(BОKU)創刊

 ユニークな俳誌「墨」(BОKU)が創刊された(発行人は津高里永子、編集人は植田也風、2021年6月6日創刊)。ユニークというのは、俳句作品は原則、自筆(手書き)版をそのまま掲載し、各自が思い思いの色紙、写真、絵画を添えてある。ひとり3頁をゆったりと占有している。活字は出来るだけ使わない方針のようだ。現在23名の仲間が集い、第2号は12月の予定とか。
 なお、発行人の津高さんは、兵庫県出身で「小熊座」「すめらき」の所属。小生とは「小熊座」でのご縁がある。著作には『俳句の気持』(深夜叢書社、2016年2月19日発行)がある。該著はNHK学園俳句講座機関誌に20年にわたって掲載されたものを単行本化したものである。
 以下に「墨」の表紙と、23篇におよぶ挿画から唯ひとつを選んで掲げます。このほかに、麗筆な色紙、遺骨収集活動の写真など、興味ある多くの作品がありました。

 なお、当該誌にご興味のおありの方は、津高さん lakune21blue.green@gmail.com または植田さん m.ueda.1853@tg7.so-net.ne.jp にご連絡ください。お問い合わせ大歓迎とのことであります。



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墨挿絵.jpg

     青墨は菩薩の匂い春の雪   土屋遊螢

 23篇の俳句作品からは、お一人一句づつに絞って抽きました。僭越でしたが、ご寛恕下さい。

05 水底もさくらあかりのしづけさに      飯田 晴
09 のつたりと葵祭の好天気          池田三猿
13 ポケットに浪漫の種や菜の花忌       植田也風
16 風評の届かぬ高さ桐咲けり         大西 陽
21 汕頭のハンカチ膝に白樺          尾上 翠
25 芸術だアスパラガスを立てて盛り      神田小町
28 消毒ののちふらここに乗る母子       齊藤節子
33 喧嘩して春菊茹でる妻にくし        西東馬蕗
37 麦秋に風あり神田日勝展         坂本ひろの
40 小鼓の一打くぐもる養花天         佐藤 径
44 口開けて目薬をさす花ぐもり     しみづとよつぐ
49 鮎奔る竿六尺に山のあを          清水碧沙
52 小綬鶏に誘はれてゐる向う岸        菅野理恵
57 朴訥な鉄火秘めたる座禅草        そ良しゅう
60 立春大吉桜(さ)苗(なえ)と名づけられたる子  髙橋美譜
65 魏よ蜀よ呉よと春筍茹上る        津高里永子
69 女川の晩禱の鐘雁渡る           土屋遊螢
73 湯上がりの女体発光ビールかな       筒井眞粦
77 捨てた薔薇の棘まんまと指を刺す      増田蘭修
81 鮎鮨や川藻ほのかに匂ひ立つ        水野星闇
84 発掘の頭骨に蠍西日濃し          山崎雷舵
89 立ちてまた座り帰省子待つ故郷       龍 太一
93 あぢさゐや煙雨全山音もなく        了戒壽香

 創刊誠におめでとうございます。ご発展を祈念しております。

藤原龍一郎編著『赤尾兜子の百句』

 ふらんす堂の百句シリーズ「赤尾兜子」版が、藤原さんによって纏められ、この6月1日刊行された。


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 赤尾兜子には筆者も以前から関心を持っていて、お奥様の赤尾恵以さんを訪ねて、いろいろ取材させて戴いたことがある。まず、生駒の和田悟朗さんにいろいろ兜子のことをお聞きし、それから日を改めて、神戸の兜子館を訪ねた。二、三回、いやもっとだったかもしれない。恵以さんはいつも、和田さんか西村逸郎さんにも声をかけ、お呼びして下さっていた。和田さんは亡くなられ、西村さんは如何されておられるだろう。いや、恵以さんご自身も「渦」を終えられて、如何にお過ごしであろうか? ある時は息子さんが作って下さったちらし寿司とサラダをご馳走になったことがありました。

 この兜子百句を読んで、小生にとって意義の大きかったことは、次の二点である。
① 懐かしい兜子の句、その多くは代表句として知られているのだが、今回読み直す機会を得て、感慨が大きかった。
② 小生があまり注目してこなかった『玄玄』や『稚年記』にも佳句があることを指摘され、思いを新たにした。これは、兜子が最も兜子らしい作品を残した『蛇』や『虚像』時代にのみ固執していた小生の間違いを質すものであり、そこに該著の意義を見たのであった。大変勉強になった。

 兜子の百句は、まず藤原さんが重要だとした33句を「第一部」で鑑賞し、ついでそれに準ずる句として全句集から67句を時代順に抽出し、「第二部」として鑑賞している。
 小生にとっての兜子句は、ほとんどが『蛇』(昭和34年9月)、『虚像』(昭和40年9月)、『歳華集』(昭和50年6月)の三冊の句集に集中していた。次のような句であった。

◎鉄階にいる蜘蛛知慧をかがやかす    『蛇』
〇音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
〇広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み
〇ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚
◎ささくれだつ消しゴムの夜で死にゆく鳥 『虚像』
◎会うほどしずかに一匹の魚いる秋
〇轢死者の直前葡萄透きとおる     
〇蒼白な火事跡の靴下蝶発てり     
〇戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ
〇硝子器の白魚 水は過ぎゆけり
◎瀕死の白鳥古きアジアの菫など     『歳華集』
◎機関車の底まで月明か 馬盥
◎帰り花鶴折るうちに折り殺す    
◎数々のものに離れて額の花
◎大雷雨鬱王と会う朝の夢

 藤原さんが第一部に選んだ句を◎で、第二部に入れたものを〇で示した。ほとんどが◎で、我が意を得た感があった。

一方で『玄玄』から、小生が懐かしく思ったのは次の5句ほどであった。

〇俳句思へば泪わき出づ朝の李花     『玄玄』
〇さしいれて手足つめたき花野かな
〇さらばこそ雪中の鳰(にほ)として
〇心中にひらく雪景また鬼景
◎ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう       

 このように、小生は『玄玄』からはあまり多くを選んでいなかったし、『稚年記』からはゼロであった。ところが、藤原さんは『玄玄』と『稚年記』から沢山選んでおられる。その意味で、たいへん勉強になった。これは、藤原さんが全体を丁寧に読みこなし、選んだということであり、小生が好みで前衛俳人としての兜子の作品に、あまりにも拘りすぎていたことを意味する。つまり、『玄玄』のころは、伝統帰りを見せ始めたころの作品が多いので、小生はあまり選ばなかったのだが、藤原さんは、「『玄玄』の作品は兜子ならではの個性が刻印されたものであり、解りやすさ故に読者への訴求力は大きい」として、そこにも沢山の佳句を見出し、紹介してくれたのである。その意味で大変勉強になった、と書いたわけである。
 そこで、『稚年記』と『玄玄』から、小生が見直すに至った句を掲げておこう。それぞれ藤原さんの鑑賞文を読んでの結果である。

 月光に握る母の掌あゝいまはの      『稚年記』
 㡡(かや)に寝てまた睡蓮の閉づる夢
 萩桔梗またまぼろしの行方かな
 征きて死ね寒の没日といま別れ
 黄落や祐三もかくうつむきて       『玄玄』
 横に出てなほおそろしやひがんばな
 秘す花のあらはれにけり冬の水
 初がすみうしろは灘の縹色
 短日はさびし来る夜のおそろしき

 なお、四句目の〈征きて死ね寒の没日といま別れ〉は、兜子が昭和二十一年一月に特別甲種幹部候補生として東京世田谷の陸軍機甲装備学校へ入隊した際、水原秋櫻子を訪ねたことがあったそうだが、生憎留守であった。真新しい日章旗を預けて帰ったのだが、そのあと秋櫻子から〈冬紅葉かがやく君が門出かな〉と揮毫した旗が送られてきたそうだ。
 五句目の〈黄落や祐三もかくうつむきて〉は、兜子が書道の関係でパリを訪れたとき、パリで客死した画家の佐伯祐三を思い出して詠んだもの、と藤原さんの鑑賞文で知った。祐三の暗い画風を思い出す。句柄は伝統派的である。
 六句目の〈秘す花のあらはれにけり冬の水〉は、世阿弥の『風姿花伝』の〈秘すれば花なり秘せずは花なるべからず〉を受けているそうだ。前衛俳句を卒業した人の作品なのだ。
 最後の句〈短日はさびし来る夜のおそろしき〉は、「鬱王」との邂逅が頻繁になっていた頃の兜子の精神状態がそのまま正直に語られている、とある。

 そして先に挙げた、

  俳句思へば泪わき出づ朝の李花     『玄玄』
  さしいれて手足つめたき花野かな
  さらばこそ雪中の鳰(にほ)として
  心中にひらく雪景また鬼景
  ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう       

などの句が、この『玄玄』に収められているのである。最後の〈ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう〉は、兜子没後のメモを恵以さんから見せられた和田が、ただ一句選んで『玄玄』として全句集に入れたものである。小生は拙著『俳人探訪』の「俳句と格闘した男―赤尾兜子」に次のように書いている。       

引用
 和田悟朗は、その『俳人想望』(沖積舎)の中の『人間兜子と俳人兜子』で、兜子の最晩年の句について触れている。
 「兜子には既刊の句集『蛇』『虚像』『歳華集』『稚年記』があるが、前二者は高邁な文芸作品を志向して厳選したものであり、後の二者は、どちらかと言うと自己の心理の克明な記録の性格が強い」
と言う。そして、昭和五十年以降逝去寸前の句までを、勿論兜子の選を経ずして『玄玄』として全句集に入れた。和田の言では、
「はっきり言って玉石混淆、俳句作品を成す前の人間兜子の生のこころがそのまま出てしまった」
と言う。その中に一句、
  俳句思へば泪わき出づあさの李花   
は、兜子の晩年の悩みを端的に物語っている。
 亡くなって半年もたって、最終の日記から三十句ほど見つかった。和田はその写しを赤尾恵以からもらっている。そして言う。
「毅然とした作家赤尾兜子の姿勢はすでになかった。文学と言う仮面の下から人間そのものの顔が出る。子規も漱石もそのふたつの顔のはざまで没して行った。三十句あまりからただひとつを全句集に載せた」
その句は、
  ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう      
である。三十句あまりのうちのただ一句である。
 引用終り

 藤原龍一郎さんにお礼申し上げます。

高柳克弘著『究極の俳句』

 高柳さんが『究極の俳句』という刺激的な題名の俳書を上梓した(中央公論新社、2021年5月10日発行)。


高柳克弘『究極の俳句』.jpg


 章だては次の通り。
  序章  言葉は信じられない
  第一章 季語を疑う
  第二章 常識を疑う
  第三章 俳句は重い文芸である
  第四章 重みのある句とは―その題材
  第五章 重みのある句とは―その文体
  終章  俳句は時代を超えられるだろうか

 高柳さんの論述は、芭蕉、蕪村から最近の若手作家、関悦史、栄猿丸、小野あらたなどをカバーしながら、相応しい例句をもとに進められている。その範囲は極めて広く、さながら俳句の歴史を読むようでもある。季語の本意の変遷にも触れている。小生が面白く思ったのは、例えば、「潮干狩り」は、昔は男女の出会いの場であったとか、「花火」は死者をなぐさめるものだったとか、認識を新たにしたのであった。

 小生が興味を持った「終章」をかい摘んで紹介しよう。

(ギリシャ神話の「テセウスの船」が部分々々を修理しながら残されたことを引用し)俳句という船は、時代によって、少しずつ建材を組み替えられていく。近代に於いて、「発句」と呼ばれていたものが「俳句」に名を変え、正岡子規が写生という西洋絵画の理論を取り入れたことで、その内実も自然描写に大きく傾いた。後継者である高浜虚子は、花鳥諷詠の文学として、俳句の主題を季語に限定させた。虚子の俳句観に反発した水原秋櫻子や山口誓子らの美意識を打ち出した句は、のちに新興俳句として発展し、前衛俳句や社会性俳句のムーブメントは、主題や文体の拡大によって、現代文学としてのアイデンティティを確保しようとした。もはや、現代の俳句と芭蕉の頃の俳諧とは、同じ五・七・五で季語が入っているといえども、似ても似つかぬものに変わってしまっている。
(俳諧は自由の上に発展してきたがゆえ、もっと斬新な試みがなされてしかるべきであり)新しさは、自由から生まれる。(俳句の入門書が、字余り、字足らず、季重なりをやかましく言い立てていることを高柳は批判し)些末なルールが「俳諧自由」の精神を縛るとすれば、伝統を守るという意識が、俳句の伝統を壊していることになる。
 俳句の新しさは、もはや汲みつくされたという人もあるだろう。文体の新しさ、素材の新しさには限界がある。ただし、主題については限りがない。人の数だけ、詠むべきものはある。一つは、新しい主題を見つけること。
  ポテトチップの空き袋氷り泥の中     関 悦史
  地下道を蒲団引きずる男かな
  ガーベラ挿すコロナビールの空き瓶に   栄 猿丸
  椎茸の切れ込みにつゆ溜まりけり    小野あらた
もう一つは、古い主題をもう一度握りなおすこと。
  来ることの嬉しき燕きたりけり      石田郷子

 俳句に一生をかけ、精進している高柳さんの、知と情が、そこら中に感じられる著作であった。

志賀康句集『日高見野』

 志賀さんは「LOTUS」の同人で、該著はその第五句集(文學の森、令和三年五月十九日発行)である。氏には俳句論集もある。


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 あとがきに志賀さんはこう書いている。

……すでに見たことや感じたことをモチーフとして一句に育て上げる――そういうことを俳句に求めたことは以前から少なかったが、今は全くないと言ってよい。書くことによって初めて、今まで見えていなかったものや感じていなかったことが一句に現れてきたとき、それは作品として残される……。

 これは、実は飯島晴子の作句方針と同じである。彼女はこう言っていた。

……言葉の現われる以前に、微量でも何かが決まっているということは絶対のマイナスである。それは、俳句という形式が、俳句という「かたち」が、俳句という「文体」が、時には授ける理由なしの過分の好意を断ることになるからである。 
  俳句を書くとき作者の胸の中には何もない方が良い。暗闇でよい。その暗闇から偶然現われた言葉が勝手に先行して次の言葉を釣り上げ、それが十七音の定型にカチッとはめ込まれる。そこは出口であり、その先には作者自身が意図しなかった詩的時空が顕ち上がる……。

 作者ですら見たことのない詩的空間が、句を書きながら、深奥から沸々と現れて来る。それは至福の瞬間であろう。だが出来上がった作品は読み手にとって、難解となることが多い。通常の伝統的な俳句を読む態度で読んでゆくと、イメージが湧かない句が多くなるのである。そこで出来るだけ、句の中のことばを自分の胸に引き入れて、自分の勝手なイメージを創造してみるのである。そうやって、何かしらが見えたと私が想った(誤解をも含めて)句を抜き書きしてみた。
 
008 母は野に許し草よと呼びて摘む
010 空国(むなくに)と言えども過客またひとり
010 聞こえねど終わりし筈の唄うたう母
014 舫い杭密かに異心蔵したる
016 憶えありて空は虹かけ雷おとす
017 宮城野は狭しと螻蛄は地の底へ
018 脚で立てば掌(て)は祈るものと知らるべし
020 日と夜に収まらず蓮根(はす)の孔に居る
023 妹は昨日と補い合わんとや
034 蜘蛛の巣が最も揚羽を美しく
037 尺取の出を間違えしまま歩む
043 猪射(う)たれまだ風景の中にあり
047 万物に目力のあり麦の秋
048 人を想うことの始めの火焔土器
051 風景をすこし酔わせよ帰郷の日
052 仰向いた気持ちに弓を張り直す
055 掌は蔭に見すべし鬼踊
068 昏夜もう叛かんのかと花ふぶき
076 こちたきやほどけし紐の語り口
081 百日眠らば己の外に言葉なし
082 遠山の動くかとみて牛歩む
091 野の花を親に包(くる)んで持ち帰る
093 雪やんですぐは頷き合うをせず
102 旅人はみずからを関と思い做し
113 冬の旅どこにも橋を置きたかり
115 問えばまず風のかたちとなる柳
124 振り向けば百年一度に立ち止まる
128 木の実落つ何と出会い損ねしや

 私の世界とは違った句の成り立ちではあるが、大きな刺激を戴いた。有難う御座いました。

結社誌「顔」創刊五十周年記念号

 神奈川県を中心に活躍している結社「顔」が創刊五十周年を迎えた。こつこつと活動を続けて来られた結社が、長い間健在で、いまや全国レベルでの活躍を誇示している。そのような結社が身近に存在することを嬉しく思う者であります。


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 同誌は、昭和四十七年に片岡紫々夫と結社「水鳥」系の人々、それに「あざみ」の牧石剛明、鈴木蚊都夫らの参加で創刊された。「個性の象徴である〈顔〉を『顔』は大切にする」というのがモットーであった。昭和五十八年に金子兜太が現代俳句協会会長に就任したのだが、それを機に、「顔」の幹部が現俳協の役員に就き、「顔」が全国レベルに知れ渡るようになった。「顔」のメンバーは、その後兜太と中国を訪問したり、平成二年にはドイツにも同行している。平成七年、「顔」は牧石剛明の主宰誌となり、伊丹三樹彦(団長)と「日伊俳句交流の集い」に瀬戸美代子が副団長として参加している。翌八年には、また中国に出かけている。国際的活躍ぶりはなかなかのものである。
 平成十八年、主宰役が牧石から瀬戸美代子(現名誉主宰)へ引き継がれ、河野南畦譲りの「硬質の抒情」をモットーに加えている。平成三十年からは、川村智香子が主宰を務めている。

 創刊五十周年のお祝いの言葉は、宇多喜代子、中村和弘、安西篤、松沢雅世、秋尾敏、尾崎竹詩(神奈川県現代俳句協会会長)、吉田功(同名誉会長)、野木桃花(「あすか」主宰)らの皆さん、そして裏表紙には森田緑郎に〈一人来二人来修那羅峠は春〉の祝句も届いている。

 この記念号の巻頭言には川村主宰の五十年を振り返る言葉があり、コロナの苦難の中で、会員の旺盛な作品発表が支えになっていることに感謝している。
 令和三年度の「顔」賞(藤本博夫さん)と「新珠賞」(岡部和恵さん)の発表があった。それぞれ十五句、二十句から筆者の好きな句を二句ずつ掲げさせて戴く。

 「顔」賞  藤本博夫
   様様な色の蝶飛ぶ夜明けかな
   吾知らぬたましひばかり蛍谷
 新珠賞   岡部和恵
   佇めば落花に浄め受くごとし
   生存の者にのみあり終戦日

 次の五十年への一歩を、今また歩み始めた。おめでとうございました。

井口時男著『金子兜太―俳句を生きた表現者』

 黒田杏子主宰の「藍生」令和3年5月号で知って、該著を精読した。井口時男氏の『金子兜太』が特集されていたのである。最近まれに、最後まで興味を持って読了した俳書である(令和3年1月30日、藤原書店発行)。
 井口氏は俳句にも詳しいが業俳人ではない。文学一般に詳しい評論家であり、もちろん、金子兜太とは深い接点を持っていた人物でもある。その井口氏が、兜太の生涯を俯瞰し、その変遷を、社会一般の動きを交えながら論じている。なまじ俳句一筋の評論家でない分、見方が実に自由で説得力がある。


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 兜太の生涯を、①社会性俳句時代、②前衛俳句運動時代、そして③晩年までの「還相」(げんそう)の時代に分けて、詳述している。「還相」という言葉は宗教用語であり、仏が真理の悟達に向けて修行する過程を「往相」というのに対し、悟達した仏が衆生済度のためにもどってくる過程を「還相」と呼ぶようだ。別の言葉でいえば、俳句で最後に得たものを大衆に施すまでに高まった姿といえようか。
 現代の俳句の歴史の中の兜太について語るとき、兜太の中の関心事は、私の理解では、故郷秩父、戦争のトラック島、日銀の冷や飯、社会性俳句、前衛俳句運動、そして晩年の大衆化と移ってきたように思っていた。しかし、一般に、最後の「大衆化」につぃては、指摘はあったものの、あまり強く認識されて来なかったように思う。前半生の兜太の存在が、私にとってあまりにも大きかったから、そう思うのかも知れない。この井口氏の書を読み、最後の「還相」の期間が、ずいぶんと長期間(1970年代後半から)であり、しかもそれが兜太の最重要な部分であるということを、あらためて強く認識させられた。
 兜太の後半生の句は、社会性とか前衛とか造形とかの範囲を超えた、いや、それらを否定したような句が多い、というのである。「還相」への移行は、兜太が山頭火を学び、一茶を研究した影響が大きいらしい。兜太を「野」の人だと定義し、人間の本性に係わる糞尿譚を熱く披歴する著者井口の語り口には興味が尽きない。

 著書の中で私が「目から鱗」だと思った箇所は沢山ある。それらに触れながら、該著の一端を紹介したい。

 フェミニストが兜太の原点
 兜太は秩父に生れたが、母はるは、封建的大家族制の中で小姑たちにいびられながら、耐えてきた。その母への愛が「フェミニスト兜太」の原点である、と井口氏は捉えている。井口氏が兜太をフェミニストだと断定したことも、私には興味が持てた。104歳の長寿を全うした母を詠んだ兜太の句は多い。中から一句。
  長寿の母うんこのようにわれを産みぬ
 思えば、この句は社会性俳句にも前衛俳句に分類されまい。

 非業の死者たちへの遺言執行人―社会性俳句へ
 凄惨なトラック島を引き上げるとき、兜太が心に決めたことは、理不尽な死を遂げた死者たちの叫びに対する応答責任であった。それはおのずと兜太を社会性俳句の方向へと進すまさせた。
  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
 ここで井口氏が書いていることを再録しておこう。
  ……たいていの大物俳人たちは、社会どころか戦争遂行権力そのものに「翼賛」する俳句を作っていたのであり、戦後は忘れたふりをして口を拭っているだけなのだ……
 それに比べ兜太は、秩父の貧しい人たちのため、戦争には勝ちたかった。だから最前線を志望したのだった。だが戦後は、理不尽に死なねばならなかった人たちのため、反戦を誓い、発言し続けたのであった。当然、社会性俳句志向なのである。

 何が前衛俳句へ進まさせたのか
 社会性俳句はメッセージ性を大切に大衆的伝達性へと傾きがちである。その結果、文学性や表現性がないがしろにされやすい。では、文学の立場を守りつつ、社会性と文学性を両立させることは不可能なのだろうか。井口氏はこう書いている。
 ……俳句という短詩型では、表現性を高めれば伝達性は低くなる。つまり「難解」になる。その「難解」をあえて引き受け、強引に押し切るだけの俳句の力をいかに獲得するか。その模索が「造型俳句」として理論的にも完成したとき、「前衛」兜太が誕生する……
  そして兜太は、迫力あるイメージを作り出すために比喩、とりわけ暗喩の機能を重視した。暗喩は兜太俳句が「描写」から「表現」へと離陸するための中心手法だった、と井口氏はいう。超現実的イメージまでも積極的に取り入れたのであった。
   梅咲いて庭中に青鮫が来ている
 
  イロニーを知らない兜太?
 「イロニー」あるいは「アイロニー」とは、ただ単に「皮肉」と訳してはいけない、重要な文学用語であるようだ。それを論じた分厚い論文もある。俳句のひとつのテーマでもある。だが、イロニーの意味は、私の言葉でいえば「引かれ者の小唄」に近いのではなかろうか。とまれ、井口氏は次の句をイロニーの籠った句として挙げている。三鬼は社会通念に対して斜に構えて広島を詠んだ、という。
   広島や卵食ふとき口ひらく    西東三鬼
  これと好対照に、兜太は、
   霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ
 と詠む。私もこの句を直接兜太の口から聞いたことがあるのだが、「女声」を「じょせい」と発音していた。この女性は当時広島駅頭に屯していた売春婦で、顔にケロイドがあった、と確か聞いたような記憶がある。つまり、兜太の俳句作品はどれも直球なのである。だから兜太はイロニーを知らない、と井口氏はいう。もちろん知らないわけはない。直球勝負が持ち味の兜太には合わないのである。
 
  造型は重信の方法が起点?
  これも目から鱗であった。高柳重信の『蕗子』の序文を富澤赤黄男が書いているが、そこに「かれ(重信)の詩の方法は確然と造型性のうえに置かれてある」など、「造型」という言葉が三度も出ているのだそうだ。つまり「〈造型〉とは赤黄男が読み取った重信の方法の核心なのだ」と言っている。これは、たしか兜太自身も認めていたようで、現代俳句協会のある講演会で「重信の影響もあって……」と語っていた記憶が、私にはある。
  ここで、面白い記述があった。
 ……伝統俳句に対抗するかぎりにおいて共闘する場面もあった兜太と重信は、やがて決定的に決裂してしまう。(略)いつでもどこでも〈保守〉は団結し〈前衛〉は分裂するのだ。〈保守〉は大衆という利益基盤を共有するが、大衆を拒絶する〈前衛〉は己が主義主張の純正性にこだわるしかないからである。(略)芸術派と社会派では、そもそも主体のあり方がまるで異なる。芸術派の主体は実生活を遮断した〈虚〉の主体だが、社会派は実生活の倫理性をそのまま引き継ぐ〈実〉の主体なのだ……
  井口氏は、兜太と草田男をも比較し、兜太と草田男の関係は、兜太と重信の関係よりも近いと述べている。この点も私には目から鱗である。
 ……「創る自分」を強調しても、金子兜太はやはり中村草田男と同じく充溢した「実」の倫理的主体なのである。そして、たとえ兜太が草田男の倫理の求心性に飽き足らなくとも、倫理性は常に社会的である。〈虚〉の主体性であることにおいて、高柳重信的前衛は、実は隠者文学の伝統から出現した俳句(俳諧)的主体の「正統」に属している。むしろ草田男や兜太の「実」の主体の方が「異端」である……
 
  「還相」到達
  該著の中で、私のもっとも惹かれる部分である。兜太の「還相」のきっかけは山頭火や一茶であったことは既に書いた。井口氏はこう解説する。
 ……後年の兜太は、一茶や山頭火といった、構成主義とはまったく反対の、即吟的で全人的な表現者に魅かれていくのである。そして、「難解派」だった兜太が山頭火や一茶に倣って表現の平明さを目指し始めるとき、彼の句が造型性を失って、いわば兜太というユニークな「人格」の流露のようになっていく……
  このあと日本は第三次産業従事者(いわゆるサーヴィス業)人口が第二次産業従事者の数を超え、都市はもはや工場労働者のものではなくなってくる。芸術・文学もライトバース化し、作者の「私性」が希薄化する。短歌も俵万智風になり、俳句も坪内稔展風が流行る。宇多喜代子は「戦後俳句は、はっきりとその活力を失った」といい、俳句は広告のキャッチコピーによく似た伝達性を獲得するようになるのである。兜太自身も自己批判を含めての前衛俳句総括を行い、七十年代転向者と同じく日常回帰を始めるのである。

  兜太は「野」の人
  かくして兜太の関心は、社会性や前衛を通り過ぎて「自然」へと移行して行く。井口氏はそういう兜太に「野」の人という称号を与えている。「野生」「在野」「粗野」「野趣」「野暮」「野人」「野良」の何れでも良いし、兜太の「太」と合わせて「野太い人」でも良い。そうして、晩年の作品としては、二つの物の出会いの句が多くなったことを指摘する。
   大頭の黒蟻西行の野糞
   人間に狐ぶつかる春の谷 
   おおかみに螢が一つ付いていた
 などである。これらの「遭遇句」には、かつての兜太なら腐心したであろう造型性への配慮は見られない。社会性俳句にも前衛俳句にも当てはまらない作品である。しいて言えばアミニズムの世界である。そして、意味の負荷からの自己解放がなされた作品である。
 
  皮肉な言い方をすれば、社会性も前衛も終えた兜太の作品は、伝統的な俳人がこれまで詠んできた膨大な数の作品と比較して、質の違いはあろうが、理念上の大きな差異はないと誤解されやしまいかと心配になる。私などは、どうしても、兜太の社会性や前衛を無視して、つまり俳句史上での彼の大きな業績を無視して、晩年の兜太だけを浮き彫りにする気持ちには、正直、なり切れないのである。
  ただし、井口氏の次の記述には大いに賛同するものである。 
 ……そもそも金子兜太は俳句や俳壇という狭い枠を大胆に踏み越えた存在であり、閉じた世界での「洗練」など意に介さず、現実世界の荒々しさへと開かれた「野暮」の方を好んだ人だったのだ……
 
  繰り返しになるが、読んでいて興奮する好著に、久々に出会えた。該著を特集として取り上げ、紹介した「藍生」2021年5月号のお陰でもある。

大澤保子句集『巴旦杏』

 大澤保子さんの第二句集が上木された(ふらんす堂、令和三年五月八日発行)。彼女は「草笛」(現代表は太田土男)と「小熊座」(高野ムツオ主宰)の同人。序文は高野ムツオが書いている。帯には「鬼房先生が指摘された〈爽やかな心象の飛翔〉の翼が、目に見える世界から目に見えない世界へと、いよいよ融通無碍の力を発揮し始めた」とあり、次の一句が引かれてある。
  涅槃西風水面は氷りつつ流る

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 高野ムツオの10選は次の通り。

  青鹿のごとく月下の一流木
  縫初の白糸通す山河かな
  完熟といふ痛みあり榠樝の実
  龍淵に潜むや下し金一つ
  雁ゆきし天を映せる甕の水
  草木と同じ息せり初しぐれ
  秋風や地下水脈の上歩く
  龍の玉歿日は痛きまで澄めり
  綾取の川をのぼれば妣のくに
  奥羽山脈よりの風花鬼房忌

 筆者(栗林)のとくに琴線にふれた句は次の通り。(*)印は右の10句と重なった。

015 篁の丈に風あり弓初
018 おとうとよ鉄の匂ひのつばくらめ
023 息遣ひなほ残りゐる蝶の翅
025 釜の湯の沸くを待ちをりほととぎす
 ここまで読んできて私は、この句集はしっかりとした伝統俳句的句集だと思った。ところが次の一句で、その印象は違った展開を見せた。
031 野葡萄の珠玉の中をわが柩
 明らかに心象が前面に出て来て、現代俳句的展開を示した。そして次の句は古格のある趣向の世界を垣間見せてくれた。裏に「九谷」などと銘が入っているのでしょう。
031 秋風や伏せて並べし赤絵皿
 さらに次の「青鹿」の句は鬼房の感覚ですよね。
032 青鹿のごとく月下の一流木(*)
 そして次の句で、趣はふたたび心象の世界に戻った。
033 秋風を毀せばいちまいの扉

 このような心の起伏を、この句集は楽しませてくれる。さらに私の共鳴句は続く。

035 雁来紅あの日戦の黒い雨
036 雪を待つ玫瑰の実のまくれなゐ
040 雪の夜や花びらのごと赤子泣く
041 ふくろふの啼くたび蔵にひびが入る
 この句からは、なんとなく飯島晴子を思ったりした。

043 さらし裁つ冬眠の蛇覚むる頃
047 縫初の白糸通す山河かな(*)
 鮮やかな新年の風情である。

051 花冷の裏もおもても白紙かな
054 少年に見え吾に見えざるかひやぐら
057 四万六千日鳩は胸より歩き出す
 鳩の動きを確かに描いている。写生と「四万六千日」という宗教季語というよりは風物詩的季語の世界。かと思うと次の一句は現代風景。
064 ベランダにバーベル置いて薔薇の家

067 うしろにも桐の一葉の落つる音
075 老鶏の早や眠りたる根深汁
076 難船のさまに置かれし冬帽子
081 立ち止まるたびに冬木となつてゐる
091 流木は木馬を夢見春の雪
092 春泥といふあたたかさ鬼房なし
094 鬼房の馬車が通るよ夕朧
「いたみし馬車」ですね。あれは「寒暮」でしたか?
100 戦よあるな土を零して蟹のぼる
「戦あるな」は鬼房の一つのテーマでしたね。
101 一本の紐垂れてゐる昼寝覚
115 完熟といふ痛みあり榠樝の実(*)
124 水餅に鬼房のこゑ充満す
132 風花や鰓のみ動く池の鯉
 もちろん家族を詠う句もある。亡くなられたご主人に夢であっているのでしょうか?
140 いくたびも夫に遇ひけり山桜
155 凍道や顔を小さくすれ違ふ
168 階段に裏側のありほととぎす
172 黄鶏頭育て銀行裏に棲む
175 ぎしぎしの枯れの極みもオホーツク
176 寒禽の眼あつめて空の飢ゑ

 変化に富んだ作品がいっぱいの句集でした。そこに通底しているのは、文学志向の心であったように、私は受け取った。

石原静世句集『栗おこは』

 石原静世さんが第一句集を出された(令和3年5月10日、本阿弥書店発行)。石原さんは平成13(2001)年から「萬緑」に所属し、成田千空、奈良文夫、横澤放川の選を受けて来た。現在は後継誌「森の座」会員。序文は横澤放川、跋文は榑沼清子(初学の石原さんを指導した方)が書いている。中に百四歳の姑と九十歳の母を見送って・・・とあり、介護の大変さを詠んだ境涯俳句集を想像したのであるが、そうではない。一読しての私の感想では、この句集は、母と姑が彼女に書かせたものではなかろうか、ということであった。もちろん、好意的な意味で……。


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自選句は次の十二句。

  金風や赤子の声のはや母似
  尻もちも苦笑も一人大根引く
  父母の頬つややかに九月来し
  今生の田を植ゑ終へて逝き給ふ
  雲を縫ふ冬月迅し千空忌
  とろろ汁脳天に沁む津軽三味
  補欠少年塁審へ運ぶ氷水
  寒禽や看取りは見詰めらるること
  野良着着るわつと蜻蛉の空になる
  鶯や地震に崩れし蔵あたり
  星晴るるかさりかさりと真菰馬
  生身魂枕の下に子の手紙

筆写(=栗林)の感銘句は次の通り。(*)印は自選句と重なった。

015 柿サラダ姑の口もと綻ばず
017 ショベルカー石を噛みたるままの冬
020 花の風児を乗せて行く猫車
022 上棟の木の香酒の香稲雀
025 尻もちも苦笑も一人大根引く(*)
026 取つときの柚子の昼風呂女正月
027 小豆粥褒めも貶しもせぬ姑と
035 負けまじと姑と並んで剥く芋茎
042 電気工事懸り凧めく男たち
048 初蟬やうんぐうんぐと乳飲む児
051 丈高に紫苑を活けて誕生日
061 母に母と思はれてゐる茗荷汁
063 こつを得て押す車椅子帰り花
068 手に馴染む砥石の丸み沈丁花
076 笑む姑に戻る目ぢから寒蜆
080 今生の田を植ゑ終へて逝き給ふ(*)
097 臍の緒のやうな茎つく西瓜買ふ
103 父へ供花天道虫のとまるまま
109 柚子湯の香姑の背中の灸あと
110 壊れさうな姑をしつかと抱き初湯
118 「命の電話」ボックス灼けて東尋坊
123 荷のやうに吊られて姑の初湯かな
127 補欠少年塁審へ運ぶ氷水(*)
130 冬至かな姑を抱きて乗る秤
130 寒禽や看取りは見詰めらるること(*)
135 春の雪抱かれ上手になりて姑
135 戻り寒姑の記憶の外の吾
139 半日の介護休暇や土用波
150 問診表の一つは嘘や秋深し
157 亡き父母の写真傍に飾る雛
160 絆創膏だらけの顔へお年玉
163 放鶏の交尾たびたび熟れ杏
164 揚花火迷子母呼ぶこゑ嗄らし
181 日の丸の十字の折り目御慶かな
184 食べてるか寝てるか卒業できたのか
185 早乙女の覆面上げて嬰へ乳
200 メロディーボタン押して発車や雪の駅

 先にも一言書いたが、この句集の最大の特集は「姑」の句が多いことである。「姑」と書いて「はは」と読ませている。筆者の目に留まった初め二つの「姑句」は 
015 柿サラダ姑の口もと綻ばず
027 小豆粥褒めも貶しもせぬ姑と
であった。感情を排除した客観表現であることに、なにか不穏ものを私は感じた。だからその先を「姑」に注目しながら読んで行った。そしてすぐに次の句群に出会った。
061 母に母と思はれてゐる茗荷汁
063 こつを得て押す車椅子帰り花
076 笑む姑に戻る目ぢから寒蜆
 私は、石原さんの「姑の句」は、嫁姑の育ちや価値観の違いからくる悩みを吐露するものではなく、見たままの人間としての「姑(はは)」を、ごく自然に描いているのだと受け取った。その根本には、「姑」に対するごく普通に湧いてくる人間感情があるのだろうと思う。いたずらによそ行きの嫁姑との美談ではなく、静かに流れる日常の積み重ねが見えるのである。それゆえにリアルである。

109 柚子湯の香姑の背中の灸あと
110 壊れさうな姑をしつかと抱き初湯
123 荷のやうに吊られて姑の初湯かな
130 冬至かな姑を抱きて乗る秤
135 春の雪抱かれ上手になりて姑
 何度書いても書ききれない。こんなに人間性を籠めて「姑」を詠んだ句集は、私はみたことがない。たまには「鬼の姑」「底意地悪い姑」を詠んでアクセントをつけて欲しいとすら思ったものである。しかし、そうでなくてよかったと、つくづく思うのである。

061 母に母と思はれてゐる茗荷汁
135 戻り寒姑の記憶の外の吾
 この二句は、実母と義母を詠んだ句であろう。底深い悲しみを感じる。だから優しくなれるのだろうか。

 該句集には、母や姑以外の佳句ももちろん多くある。

080 今生の田を植ゑ終へて逝き給ふ(*)
127 補欠少年塁審へ運ぶ氷水(*)
163 放鶏の交尾たびたび熟れ杏
などは、この句集の中で、「自分」や「自分」を囲む「うから」を離れて、人間一般、他者、自然の生き物などなどを、あるときは一回性を、あるときは普遍性を、ないまぜにしながら、より広い対象への詩性を詠んだものとして、嬉しく思っている。

今泉康弘著『渡邊白泉の句と真実』

 今泉康弘のこのところの執筆活動には目を見張るものがある。「円錐」87号(2020年11月15日)の「三鬼の弁護士」(以後、4回にわたって連載されるようだ)、2021年の「俳句界」3月号の「渡邊白泉の詩的構造」、そして今回の『渡邊白泉の句と真実』(2021年4月22日、大風呂敷出版局発行、全194頁)である。


今泉・白泉.jpg


 該著は、今泉が得意とする分野のひとつである新興俳句に係わるものであり、特に渡邊白泉を取り上げ、その作品と人物を詳細に腑分けしている。その論法は、白泉の関係者に直接取材し、白泉の人となりを浮き彫りにして、作品の鑑賞、解釈に役立てるというやり方である。取材は、白泉が戦後まもなく阿部青鞋の招きで岡山県の高校に奉職する頃にまで遡っている。筆者(=栗林)もこの頃の白泉の行動が気になっていたのだが、今泉ほど熱心に追っていなかった。今泉は、この頃の白泉を知る須田義昭(白泉に英語を習った人で、今も現地で酒造業を営んでいるそうだ)を取材していて「麻雀が好き、酒が好き、歌が好きな人として知られ、朗らかな善い人として親しまれていた」と聞き取っている。村の青年が白泉のもとに集まって俳句の話や文化の話に耳を傾けたようだった。このころ起こった白泉の失踪事件にもわずかだが触れられており、人間白泉の一面を知る思いがした。
 今泉の取材は白泉の次男渡邊勝(伊豆の大仁にお住まいだったと記憶している)にもおよび、白泉の終の職場、沼津市立高等学校の教え子らにも広がった。佐藤和成らである。佐藤らが中心となって同高校の玄関に〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉の句碑を立てたのだが、この件に筆者も間接的にかかわっていたので、とても懐かしい。

 もちろん作家論だけでなく、その作品をも深く考察してる。該著の末尾には今泉の「渡邊白泉百句抄」があり、懐かしい作品が採録されている。私にとっても忘れられないものが多く、それらをいくつか抽出させて戴いた。

  街燈は夜霧にぬれるためにある
  あまりにも石白ければ石を切る
  自動車に昼凄惨な寝顔を見き
  鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ
  われは恋ひきみは晩霞を告げわたる
  銃後といふ不思議な町を丘で見た
  戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり
  憲兵の前で滑つて転んぢやつた
  戦争が廊下の奥に立つてゐた
  吾子は死にもろ手をたもち我残る
  夏の海水兵ひとり紛失す
  玉音を理解せし者前に出よ
  新しき猿又ほしや百日紅
  つめたよと妻に言わるる手足かな
  まんじゆしやげ昔おいらん泣きました
  鶯や製茶会社のホッチキス
  松の花かくれてきみと暮らす夢
  おらは此のしつぽのとれた蜥蜴づら
  海鳴りにエリカはめざむ一つづつ

 該著は渡邊白泉を知る上で不可欠な資料である。

佐藤鬼房の百句

 渡辺誠一郎「小熊座」編集長が表記の「百句シリーズ」(ふらんす堂)を出された(令和三年四月二十日発行)。小生も鬼房を勉強させて戴いた縁で、どのような句が抽かれているか、興味を持って読ませて戴いた。副題に「成熟に抗して」とあり、あとがきには次のオマージュがある。

  鬼房は蛇笏賞の受賞の際、自らを「翼を欠いた鳥」に喩え、「永遠の飛翔願望」を抱くと語った。「地を這うばかりの哀しい存在」であり、「土俗に愛情を傾けすぎる」とも。それは生きることへのしたたかな強さそのものであった。痩身の中には、土俗的なエネルギーが常に湧きたっていた。そして成熟の誘いに抗するように、必死に蒼樹、あるいは修羅にならんとした。と同時に、幼くして故郷を出たという「流民」意識は強く、詩想は遥かな彼方を遠望するのが常であった。

 渡辺のこのあとがきは、師の特徴を見事に捉えていると思った。これに加えることはないのだが、私は、鬼房の句を読んできて、低い目線の中に「自分は何者なのか」を常に問い続けた人であり、病い持ちなのに、エネルギーを強く持ち続けた人だったと、つくづく思っている。
 この百句の中に、私の好きな次の句が収められていることを、嬉しく思ったのでした。


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010 生きて食ふ一粒の飯美しき    『名もなき日夜』 昭和二十六年
012 夏草に糞まるここに家たてんか
014 切株があり愚直の斧があり
024 縄とびの寒暮いたみし馬車通る  『夜の崖』    昭和三十年
034 馬の目に雪ふり湾をひたぬらす  『海溝』     昭和五十一年
036 女児の手に海の小石も睡りたる
044 吾にとどかぬ沙漠で靴を縫ふ妻よ
056 陰(ほと)に生(な)る麦尊けれ青山河     『地楡』     昭和五十年
124 壮麗の残党であれ遠山火     『半跏坐』    平成元年
142 長距離寝台列車(ブルートレーン)のスパークを浴び白長須鯨(しろながす)
『瀬頭』     平成四年
148 やませ来るいたちのようにしなやかに
164 除夜の湯に有難くなりそこねたる

 有難う御座いました。