高野公一『芭蕉の天地』(その3)

 今回は第八章のみを掲げる。

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第八章 歌仙の時―素顔の旅の俳諧師
 芭蕉は乞食行脚の僧身のいでたちで旅立ち、諸国を能の脇僧のように巡る。その作品『ほそ道』は、旅そのものの本質がそうであるように、まるで、行きて戻らぬ歌仙の展開の趣の内に進む。この章では、旅の俳諧師の姿と作品が、道中で催された歌仙を中心に、どのように『ほそ道』に書き込まれたか、あるいは、書かれなかったかを見る。
 最初の歌仙は黒羽・余瀬で巻かれた。十三日におよぶ長逗留で〈秣(まぐさ)おふ人を枝折の夏野哉〉などを発句として詠んだが、『ほそ道』には載っていない。
 次の歌仙は須賀川の等窮の元で、「白河の関いかにこえつるや」と訊かれ、〈風流の初めやおくの田植うた〉と陸奥への挨拶を発句として巻いた。白河や壺の碑での激情的な雰囲気ではなく、ここでは、真に雅味あふれる、なごやかな雰囲気であったようだ。 
 尾花沢では江戸の頃からの知己である紅花問屋の鈴木清風のもと、十日間くつろいでいる。〈涼しさを我やどにしてねまる也〉を発句に巻いている。陸奥の歌枕や義経ゆかりの史跡をめぐる旅人の心模様とは一味違った出羽路の始まりであった。
 次は大石田・新庄である。清風のその勧めで立石寺を訪れ、大石田の船問屋高野平右衛門宅で三泊、到着の翌日早速四吟歌仙。ここで〈五月雨を集て涼し最上川〉が出て来る。
 さらに新庄では渋谷甚兵衛(俳号は風流)宅に泊まり、歌仙興行。
        
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 ここで余談だが、思いだしたことがある。小生が蛇笏賞作家渋谷道(私家本『俳人渋谷道―その作品と人』、書肆アルス)を書いたとき、芭蕉が新庄の紅花問屋である渋谷家に泊まったことに触れたことを思いだした。関係部分を引用しよう。 

(渋谷道は)先祖の盛信、甚兵衛兄弟が、松尾芭蕉主従を招いた元禄二年六月のことを、証明する資料を持たぬがゆえに、世間へ向けて口にはしなかった。明治元年、澁谷家が戊辰戦争で焼亡したとき、芭蕉の残した真筆も失われた。家を捨て故郷を出た祖父盛孝が失意を抱き続けながら、一目新庄を見たかった心根がいま思いやられる、という。
 昭和十七年、道十六歳。昭和十三年に発見されていた『曾良随行日記』がこの年の八月、発見者山本六丁子によって出版された。後日知ったのだが、新庄の項に澁谷家の盛信亭、風流亭の記述があった。この『曾良旅日記』の岩波書店版には、元禄二年六月一日のところに、「二リ八丁新庄、風流ニ宿ス」とある。この風流は甚兵衛の俳号であり、澁谷九兵衛盛信の弟で、二人とも紅花商人であった。芭蕉と曾良はこの風流亭に泊まったのである。そして翌日は、
 二日 昼過ヨリ九郎兵衛ヘ被招。彼是、歌仙一巻有。盛信。息、塘夕、澁谷仁兵衛、柳風共。孤松、加藤四良兵衛。如流、今藤彦兵衛。木端、小村善衛門。風流=澁谷甚兵へ。三日 天気吉。新庄ヲ立、一リ半、元(本)合海。次郎兵ヘ方ヘ甚兵ヘ方より状添ル。
とある。脚注に、「九郎兵衛は、澁谷氏。俳号盛信。新庄第一の富豪で風流の本家」とある。連句の会が催され、出席者に澁谷家の面々の名が出ている。三百年後、この盛信が(渋谷)道に繋がっていることが判明したのである。

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 場面は羽黒山に進む。ここでの歌仙は正式な俳諧興行であり、江戸の高名な俳諧師とその共を迎えてのものであり、尾花沢や新庄での俳諧の座とは趣の違ったものであった。一山を代表する別当代会覚阿闍梨ほか連衆が集まっての三日に渉る堂々とした座であった。
  有難や雪をかほらす風の音
  鶴岡では旧知の庄内藩士宅で〈めずらしや山を出で羽の初茄子〉、次の酒田では、豪商寺島宅で〈涼しさや海に入たる最上川〉。そしてかの象潟を訪ね、また酒田に戻る。〈温海山吹浦かけて夕涼〉。
 塩竃、松島、平泉では俳諧興行がなかったのだろうが、出羽路では俳諧師の本領を取り戻したかのようだ。
直江津・高田・金沢・大垣と歌仙は続くが、少し長くなりすぎたので、小生の記憶に残る名吟だけを挙げさせて戴こう。
  あかあかと日は難面も秋の風
  塚も動け我泣声は秋の風
  あなむざんやな冑の下のきりぎりす
 
 かくして、芭蕉は、時間というものが行きて帰らぬ連句の運びと同じであること、すなわち、旅も世界も時間も、すでにそれ自身が連句であることを悟り、生涯をかけて磨き上げた連句的感性をもって、旅の事実と心で見た真実が織り成す文学空間を作り上げていったのである、と高野は纏める。

 参考までに拙著『渋谷道ーその作品と人』の写真を載せさせて戴きます。最終章は次回に。

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