坂口昌弘著『俳句論史のエッセンス』、特にアニミズムについて

 坂口さんの該著は、俳句の世界のいろんなテーマについて、自らの見方を含め、多くの方々の論を要領よく纏めてくれており、たいへん参考になる(本阿弥書店、令和2年5月17日刊行)。
 写生論、有季・無季論、定型・自由律論、新興俳句、第二芸術、社会性、前衛、切字論などについて書かれており「俳壇」2017年1月から2019年6月号に連載したものである。

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 筆者(=栗林)はなかでも「アミニズム」について、以前から興味を持っていたので、その部分をさっそく読み始めた。該著の258頁から295頁にかけての論述である。
 要約してみよう。

アニミズムの要約
 初めに該著で扱う「アニミズム」の定義を述べている。この概念を創唱したのはイギリスの人類学者エドワード・タイラーで、「自然の事物が魂または意識を持つという信仰」であるとしている。アニミズムの特徴は、動植物の生命を神と思い、太陽や月という生命のない物質をも神として崇めることである。該著で坂口は「自然・造化の万物に人間の命と同様の命を感じ、その命の根源としての神々や魂の存在への認識と信仰という概念に限って俳句を考えたい」としている(私見:単なる「認識」のレベルを超えて「信仰」というレベルまで高められていなければならないと解釈した)。
 共産主義・唯物論は無神論・無魂論であり、神と魂の存在を否定し、反アニミズムである。インドの釈迦仏教は、神と魂の存在を一切語らず、アニミズムではない。インドのバラモン教とヒンドゥー教は、神々を信じ、人と動物には魂を認めるのでアニミズム的ではあるが、植物と無機物には魂を認めない(私見:この点で判断すれば、筆者のアニミズム観はバラモン教やヒンドゥー教系に近いのかもしれない)。
 中国の荘子は、人・動物・植物・無機物の森羅万象に、命の根源としての魂の存在を認めた。その影響を受けた中国・日本の大乗仏教と日本の神道は、アニミズムに含まれる。有季定型の俳句・短歌も、神々の信仰に関していたから、そのルーツはアニミズムに深く関係している。
 西洋人のほとんどはキリスト教の唯一神のゴッドを信じ、神々や自然の魂の存在を認めていないから、アニミズムは下等な宗教だと否定している。
 アニミズムは今も多神教・多仏教の国々では適用できる概念で、基本的には日本人の多くはアニミストである(私見:正直言うと自分は、信仰のレベルに達していないので、アニミスト予備軍かも知れない)。
 子規も虚子も客観写生を説いたが、魂と神々の句を詠んでいるからアニミストである。
 平成時代には俳句におけるアニミズム説が出てきた。万物に魂と神々を感じることは、それを肯定するか否定するかのどちらかであり、科学的理性では証明不可能である。文学・宗教・哲学では魂の存在が肯定され、科学では否定される。日本文学では、アニミズムは生命感覚として理解されてきたが、あくまでも生命の根源に魂があるという理解に限らないと議論が混乱する。

金子兜太と稲畑汀子のアニミズム
 二人は有季と無季に関して対立しているが、共にアニミズムという言葉を使っている。兜太と虚子(や汀子)に別々のアニミズムがあるわけではない。兜太が虚子を批判した論点とは違う次元で考えるべきである。二人の対立点よりも共通点を理解すべきである。例句としては
 梅咲いて庭中に青鮫が来ている    兜太
 花に精宿る故人を偲びつつ      汀子
等があげられる。先に見たタイラーの定義から見れば、二人とも霊性の存在を詠むことだけにおいて、共通してアニミズムに含まれる(私見:二人の対立点を見るのではなく、共通点を見るべきだとする、この整理は見事)。

金子兜太のアニミズム観
 下記3句の第1句〈おおかみに螢が一つ付いていた〉はアニミズムの句のように見えるが、これだけでは魂を詠んでいないからアニミズムの句とは言えない。しかし、2,3句目と併せて読むと、初めてアニミズムの句だと分かるのである、と坂口は主張する(私見:まさにその通り。第1句句だけでの判断は早計であり、狼と蛍の句があるから強いアミニズムが感じとれるのであろう)。
  おおかみに螢が一つ付いていた    兜太
  おおかみを龍神と呼ぶ山の民     
  魂きわまる螢火おれに眠りあり
 兜太はどちらかというと動物のなまなましい生命感覚をアニミズムとしていた。それに対し、次に述べる虚子のアニミズムは、花鳥風月に魂と神々の存在を詠んでいた。兜太は虚子を批判したが、虚子もまたアニミストであった(私見:むしろ虚子が先輩であったと筆者は感じている)。

高濱虚子のアニミズム
 坂口は、兜太と虚子の共通する概念において、「魂と神々を感じる俳句であれば、アニミズムという概念が適用され得るということ」が、この章で言いたいことである、と書いている。二人は、魂と神々の存在を俳句に詠んでいるという点において、共通なのである。
 氏は、山本健吉が虚子のいう「存問」を「新しいアニミズム」だと断定したことを言揚げする。「存問」とは「山川草木鳥獣虫魚など森羅万象に対して挨拶の言葉を交わしていることである。(中略)無機物な自然に対しても、あたかもそれが生きているかのように言葉をかける」ことである。
  子規逝くや十七日の月明に      虚子
 この句は(一見)客観写生の句である。しかしこの句の背景を説明した文では「子規居士の霊が今空中に謄りつつあるのでは無いかといふやうな心持ちがした」とあることで、虚子は子規の魂を見た。だから句は主観的写生であり、目に見えない霊を感じることはアニミズムである(私見:肉眼で見えるものに対して目に見えない魂や神々を感じるのがアニミズムであるようだ。とすると肉眼で見えないものはアニミズムの対象にならないのだろうか。このことは後でまた述べる)。
 汀子は虚子が「天地有情」という言葉を好んで発していたという。「天地有情」は図らずもアニミズムの日本語訳といってよいほどである、とも言っている。坂口は「汀子は虚子の俳句観の本質を洞察した優れた批評家である」としている。
 アニミズムを否定する人も、神々や霊や魂の俳句を詠む限り、アニミストである(私見:この意見は筆者にとっては広すぎると思う。本物のアニミストは魂や神々を木や石にも認めるという態度が信仰のレベルまで達していなければならないと思う。その意味で後述する中沢新一はアニミズムのみごとな解説者ではあるが、それはあくまでも学問上のことであって、中沢が信仰として魂や神々を木や石にまで信じているかどうかは、私には分からない)。

山本健吉のアニミズム観
 健吉はアニミズムを柳田國男と折口信夫から学び、「歌は意味でも思想でもなく、その中にこもる〈いのち〉〈魂〉〈生気〉〈スピリット〉〈神のようなもの〉が大切であり」と語り、「私は自分をアニミストだと思っている」とある。詩歌関係の文章でこう書いた人は健吉が初めてであろう。兜太は、初期の頃はアニミズムという言葉や概念は使っていない。
 アニミズムは体系的な俳句論でそれまで語ることができなかったから、俳句論として論じたのは彼がはじめてであろう。俳人は、魂と神々の存在を肯定するか否定するかのどちらかである。目に見えるものの写生は誰にでも容易であるが、目に見えない魂や神々の存在を描写することは容易ではない。描写する以前に、それらの存在を信じていなければ心に見えないからである。新興俳句であれ伝統俳句であれ、優れた俳人は魂と神々の存在を描写できたのである。

梅原猛のアニミズム観
 梅原猛は「日本文化の原理」を五十年間かけて考え続け、それを「草木国土悉皆成仏」だと結論した。梅原は、鈴木大拙が日本文化の全体を「禅」で説明しようとしたが、とてもできていないと批判した。禅よりもむしろ神と霊の存在を信じるアニミズムの方の影響が大きいという。
 梅原は、人間ばかりか鶯や蛙も歌を詠むという能を作った世阿弥、さらには宮沢賢治も伊藤若冲もそれらの作品から〈草木国土悉皆成仏〉の思想を持っていた」という。曹洞宗開祖の道元は山川草木と一体になって仏となった、とある。

荘子の「万物斉同」とアニミズム
 梅原の思想の根本をなす「草木国土悉皆成仏」に関連して、『涅槃経』の「一切衆生、悉有仏性」と、中国天台学における「草木国土、悉皆成仏」という思想は、荘子の思想に基づいている、と福永光司が書いている。ここで「衆生」とは「生きとし生けるもの」であり、インド仏教・哲学では植物や無機物は含まず動物だけだった。中国の天台教学においては、情なきものにも仏性があるとして、土塀や瓦石にも仏性を認めている。

宮坂静生のアニミズム
 アニミズムに深い関心を持っている俳人の一人に宮坂静生がいる。彼の卒論が「蕉風俳諧発想法序説―荘子との関わり」を書き、万物の生命の根源としての道(タオ)を説く荘子を研究したことがアニミズムへの関心に結びついたのではないか、と坂口はいう。

新興俳句俳人たちの伝統的アニミズム
 新興俳句の人々がアニミズムの句を詠んでいたことは無視され続けてきた、と坂口は書く。その例が、
  月光に己の魂と死をかたる       渡辺白泉
  虹は神の弓なり我等手にとり難く    細谷源二
などである。伝統俳句、新興俳句、社会性俳句、前衛俳句にかかわらず、多くの俳人は、魂と神々の存在を思うアニミストである。

アニミズムの創唱者、エドワード・タイラーの『原始文化』(中沢新一への反論)
 該著のアニムズムの項のおしまいに、坂口は、タイラーの著作『原始文化』を紹介している。その論はここでは省略するが、中に筆者にとって興味深い記述があった。中沢新一への反論である(中沢のアニミズム解説記事はこのあとでその要点を掲げておく)。
 坂口はこう記述する。
「タイラーが創唱したアニミズムの定義を誤解した発言に最近出会った。中沢新一は『俳句の海に潜る』の中で、高濱虚子の句〈凍蝶の己が魂追うて飛ぶ〉は近代的なアニミズムであり、私(=中沢)としては面白くない、と述べている。魂の定義は時代を貫くもので、近代も古代もなく、中沢が主観的好みで、面白くない、といっても正確にはタイラーの定義に従わざるを得ない」
「身体から離れた魂の存在があるとすることは、すでに荘子の時代から語られた伝統的・古代的な思想である。魂は物体・肉体とは別だとする二元論であろうと、魂と物体。肉体が同一であるいう中沢の一元論であろうと、魂の存在を詠むことをアニミズムと定義しないと混乱する」
「中沢のような論理的一元説ではわりきれない」

 坂口の論はまだまだ続くのだが、このあたりで終えておこう。
ところで、筆者(=栗林)が聞き齧った(いや調べ齧った)アニミズムの資料を掲げておこう。中沢のアニミズム解説と兜太・汀子の対談である。

アニミズム―(栗林の)私論を含めて
 以前、兜太は「西洋は対物」的だと言っている(『悩むことはない』、(株)文藝春秋、平成25年10月)。西洋の童話では、人間が罰として動物に変えられたりするが、日本では、逆に動物が温かい気持ちで人間になったりする(鶴の恩返しなど)。このように兜太の心根には人と動物との対等な交流意識があるようだ。アニミズム的ともいえる。
中沢新一がアニミズムを分かりやすく解説している(「現代俳句」平成28年2月号)。未開人のアニミズムは西洋のそれとは違っていて、説明では、

「宇宙をあまねく動いているもの」これをかりに「霊」と呼び、英語では「スピリット」と呼ぶことにしましょう。このスピリットは宇宙の全域に充満して、動き続けている力の流れです。この「動いているもの」が立ち止まるとき、そこに私たちが「存在」と呼んでいるものが現れます。立ち止まり方が堂々としていて、何千年の単位で立ち止まっているものは石と呼ばれ、二百年ぐらいの単位で立ち止まったスピリットは、木というものになります。りっぱな木や石に出会ったとき、インディアンは石や木そのものでなく、その背後に流れている大いなる「動いているもの」に向かって祈りを捧げるのです。
 同じようにして、四本の足を持って地上を動くことのできる形で数十年立ち止まることになれば、それが動物になる。空を飛ぶ鳥になるスピリットもある。もちろんそこには人間もいます。大いなる「動くもの」が人間という存在として立ち止まったから、そこには人間がいるわけです。

とある。日本人の、特に俳人が納得するアニミズムは、中沢の言うこのアミニズムに近く、ヨーロッパの(「もの」と人間を二元的に考える)西洋アニミズムとは違っていることに気がつくのである。

 以下は筆者(=栗林)の愚考なので、読み過ごしていただいて構わないが、この考えを敷衍すると、木や石を加工した机やお地蔵さんもアニミズムの範囲に入ることになる。これは分かる。だが、石を拡張してウラン鉱石を考えてみると、これがスピリッツの化身だと認め、これを人工的に加工して作り出した核燃料もプルトニウムもセシウムも霊の化身であるとなり、これは行き過ぎではないではなかろうか。つまり、万物がスピリットの化身であるとはいえ、アニミズムの範囲は、自然に限りなく近いもので、畏敬の対象になりえるもので、かつお互いにフレンドリーなものという暗黙の了解があるのではないだろうか。
 中沢新一は学問としてのアニミズムを上手く説明してくれてはいるが、自身が熱烈なアミニズム教の信者であるかどうかについては、今一つはっきりしない。その辺ところを、筆者はいつかもっと知りたいと願っている。

(追記)これに関し最近考えていることは、アニミズムは肉眼で見える万物に対して目に見えない神々や魂を感じ信じることのように思っている。ところが、肉眼で見えないもの、たとえばセシウムとかウイルスにも魂を感じねばならないのなら、少し無理があるように思える。それと同じく、巨石に神を感じるのは納得できるが、山古志村の地震で巨岩が崩れ婦人の乗る車を押しつぶした、あの巨岩にも神を感じなさい、と言われると、如何なものかと思ってしまう。アニミズムの対象は、人々の心中で暗黙的に人間にフレンドリーなものという約束ができてしまっていやしないだろうか。そのような訳で、自分は準アニミストだと思っているのである。もっともこの考えは、多くの神の中には邪悪な神もいるのです、と言われればそこまでではある。山は崩れるし川は暴れるし・・・。

 思えば、俳句の世界では特異とも思われる考え方が支配的になることがある。例えば「写生」という方法である。美術の世界では「写生」を超越した流れが発展しているが、俳句の世界では「写生」が方法の域を超えて重要視され、玉条化されている。アミニズムも、たとえ宗教的には忘れ去られたものであったとしても、俳句を詠むものの万物を視る心の基本として、おそらくは末永く生き残って行くのかも知れない。

アニミズムをめぐる兜太・汀子対談
 折角なので、拙著『俳句とは何か』から兜太・汀子の論争を再録し、掲げておこう。先に要約した坂口の記述にも出てきた両者の激論である。この記事のもとは「俳句界」平成23年1月号にある。
金子 最短定型詩というのは、命に一番触れやすい形式だという体験を私は持ったんです。最短定型のおかげで、私はかなり命に直に触れ得たという思いがありますね。ですから、今の若い人たちは植物とか小動物とかの付き合いを大切にするみたいだから、それはいいことだと思います。それをもっと積極的に体験して、そこで命を体験する。私はそう思うんですね。人間同士の命を体験するのは、なかなか出来ませんからね。今の時代、道徳とか倫理が入っちゃって、人間が律儀になっちゃう。生じゃないんですよ。誰かが死んだとして、その亡くなったひとのことを理屈で考えたりするでしょう。それは命に触れているわけじゃないわけ。だから本当に直に命に触れる機会を持たなきゃ駄目。俳句というのはそのチャンスだと思います。
稲畑 だから、私は、二十一世紀のキーワードは「自然」だと、早くから言っているんです。俳句を作ることによって、いろんな事柄を吸収していける。若い人はもっと自然に親しんで欲しい。
金子 「自然」と言っちゃうとぶれちゃう。私は、「生き物感覚」と言っているんですけどね。
稲畑 だけど、金子さんも私の真似して、自然がキーワードだって言ったのよ。
金子 そうかな。いのちの世界が自然だからね。
稲畑 どこかで書いていたわよ。ただ、「人間も自然の一部である」ということは、もう高濱虚子がすでに言っています。
金子 いや、虚子のように、自然随順なんていう言い方は誤解され易い。随順しているんじゃない。人間も自然、他の生き物と同じなんだよ。
稲畑 それは虚子が言った言葉じゃないですか。
金子 虚子は違う。私の場合は花も蝶もみんな生き物、同じ自然だと。
稲畑 同じことですよね。
金子 違う。虚子とは逆。虚子は律儀に自然随順、花鳥諷詠なんですよ。そういう律儀な考え方は駄目。生き物は全部、自然なんだ。つまり平等でなければいかん。私が言いたいのはそういうことなんです。今はまだ自然と人間と、二元的に考えたりしている癖があるよな。人間と自然は別物だと。
稲畑 人間も自然の一部であるということでしょ。虚子と同じですよ。花鳥諷詠というのは松尾芭蕉の「造化にしたがひて四時を友とす」「見るところ花にあらずということなし。思ふこと月にあらずといふことなし」ということを短く言ったのが、花鳥諷詠であると虚子が言っています。
金子 それは孫が言い直しているだけだ。じいさんはもっと律儀に、道徳的に、二元化していた。まあ、また、繰り返しになるからやめましょうよ。結局ね、稲畑と私がこんなことを言い争いするようになったっていうことが一つの収穫だと思う。命の世界が自然なんだから。私も稲畑もそこへの思いを深めている。そういう現象だと思う。去年(平成22年)はそういう年じゃなかったんですか。ホトトギスの人たちは写生が大事だと言っていますが、写生とはいのちに触れることですからね。私の場合は、もっと心の中で、アニミズムというものを理解しながら、生き物感覚なんて言ってきた。
稲畑 アニミズムは私が先に言ったの。
金子 そういうけちなことを言うんじゃない。あなたの本当に一番悪い癖。命ということに共通に、問題意識の中心が来ていると。それが大きな収穫だと私は見ていますよ。俳句はそういう役割をしているんだよ。最短定型というのはそこが強いんですよ。



 このほか、該著『俳句論史のエッセンス』には、俳人にとって興味深いテーマとその解説、論考が満載されており、俳句愛好家にとって必見の書である。次には、古くて新しい問題だと筆者が考えている俳句第二芸術論を、読もうと思っている。

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